うちのガラクタ

古びたモノが好きです。日常の捕って付けたようなモノ・コトの紹介です。

364 帰省日誌 札幌





帰省3日目(6月23日)、今日は晴れたので、札幌のまちの中心にある緑のオアシス、久しぶりに北大植物園へ行ってみました。



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 ● 北海道大学植物園、園内には北海道最古の博物館がある。

北大植物園の歴史は、明治9年(1876)に設立された札幌農学校(現北海道大学の前身)のクラーク博士が、植物学の教育には植物園が必要と進言したことに始まる。
同年、農学校校内に小さな樹木園と灌木園が造られた。
一方、開拓使は北海道道庁西側の原始林を牧羊場とし、明治15年(1882)に博物館を建設。
明治17年(1884)、植物園用地が博物館とともに札幌農学校に移管され、のちに初代園長となる宮部金吾が計画・設計をし、明治19年(1886)に植物園が開館する。
近代的植物園としては日本で初めて造られたもので、日本で2番目に古い植物園である。

大正時代の終わり頃までは各所で泉が湧き出る地味豊かな場所で、開園以前の自然地形とともに、原生林の面影を残すハルニレやイタヤカエデ、ミズナラ、ハンノキ、ドロノキなどからなる落葉広葉樹林が残っている。

博物館(左上)は、北海道で最古の博物館で、建物やガラスケース(中央)は重要文化財に指定されている。
博物館が札幌農学校(現在の北海道大学)に移管された後、動物学を中心とする博物館へと変化する。
レトロな館内には、世界で唯一のエゾオオカミの剥製(下中)や、南極観測で活躍した樺太犬タロの剥製、鳥類標本、考古資料などが展示されている。

クラカケアザラシ(左中)、ヒグマ(右中)、湿性園(左下)、ヤマボウシ(右下)




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 ● タロ(右上)と、樺太犬関連の展示写真。

昭和31年(1956)に国際地球観測年プロジェクトの一環として、日本から南極観測隊が派遣されることになる。
この活動の一部として、犬ぞりの研究準備が開始される。
博物館で助手をしていた芳賀良一が中心となり、稚内の公園内に設立された訓練所に道内各地の優秀な樺太犬が集められ、訓練が開始された。
博物館には「南極物語」で知られるタロ(右上写真の黒い犬)は、この植物園で余生を過ごし剥製として展示されている(ちなみにジロは東京国立科学博物館に展示されている)。

南極派遣犬であったタロの剥製は犬ぞりとともに館内に常設展示されているが、今回は企画展示として、南極観測用の樺太犬に関する資料が展示されていた。

写真(左上4枚); そんな樺太犬の訓練所の様子。
写真(左中4枚); 参考資料として当時撮られた「輓曳犬」。橇やリヤカーを曳く。
写真(左下)  ; 犬ぞり。
写真(右下)  ; 南極に派遣された犬。シロ(利尻)、リキ(旭川)、クマ(紋別)。
犬外哲夫・芳賀良一 「日本南極地域観測隊犬橇関係報告(1)」 『南極資料』4、1958年より。





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 ● 「北方民族資料室」

管理棟2階には「北方民族資料室」があり、北海道の先住民族(アイヌ・ウィルタなど)の生活文化資料が展示されている。


これらの資料は、明治初期に開拓使が博物館に展示するために収集したものと、昭和初期に大学での研究のために収集されたものが中心となっている。
古い時代に収集されたものとしては、いつ・だれが・どこで収集されたかが、ある程度明確な履歴をもつ資料が多く、研究や文化の復元のうえで貴重な情報を提供できる重要な資料となっている。
しかし一方で、収集された時代背景から考慮すると、先住民族であるアイヌ民族の文化についての知識も現在よりははるかに浅く、ある意味特殊なもののみが選択されているとも考えられる。
昭和初期の研究においては、当時のアイヌ民族観に留意する必要がある。
当時アイヌ民族やその文化は「失われてゆくもの」という、現在では考えられないような意識が存在していた。
そのため当時の研究者にとっては「失われつつあった」事柄を記録・保存することに主眼を置き、明治時代と同様にその特殊な部分のみに注目したきらいがある。
また植物園内には北方民族が生活の中で利用した植物を栽培展示した、北方民族植物標本園が設置されている。   <パネル文より略載>



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 ● 北方民俗資料室展示より。

会場に流れるVTRはアイヌの「熊祭」の映像<旭川市近文アイヌコタン、昭和10(1935)年1月13日、13分>

この映像の主催者である川村カ子トの、川村カ子トアイヌ記念館は、通っていた高校のすぐ裏手にあった、小学校の社会科見学の遠足で行った当時にして、とても古くさい印象があった。
近文にはストーン・サークルなどアイヌの遺構もあったけれど、近年になるまでは、灯台もと暗しで、アイヌ関連の資料には特に関心を持たなかった。
その後、帰省の際など、折に触れできるだけアイヌ関連の資料も観るように心がけている。
民族のアイデンティティーは一体どこにあるのか、民族の純血度としては、アイヌ民族にも既に和人の血が混じり純血のパーセンテージは、現代では相当低いのではないかと思う。
沖縄では過去に琉球王朝が日本の傘下に統合されるにあたり、近年まで人頭税などの重税が課せられた暗い歴史があるが、現在みる沖縄では、独自の言葉や食文化、住居スタイルが、変容しながらもまだ日常的に残されている。
アイヌ民族の場合は、明治32年(1899)の「北海道旧土人保護法」<アイヌ民族の農工化と教育による同化を内容とし「保護」する>発令以来、アイヌ民族としての尊厳を半ば強制的に剥奪封印した政策が強行的になされてきた。

以前訪れた、沖縄の八重山の竹富島では、琉球人とアイヌの南北交流親睦会に居合わせたことがあった。
上川アイヌ、旭川アイヌのグループが参加し、アイヌからはエゾシカが、竹富側では隣の黒島の豚が、それぞれ一匹分提供された会食となった。
両者互いにもたらされた肉料理の味を褒め合い、 「云ってくれたら、いつでも鹿持って来るよ・・・・・・・・」というその人の言葉にちょっとだけ胸が切なくなった。
交流会の演目では、互いに民族衣装や祭りの衣裳を纏った芸能大会となった。
竹富側では有名な種取り祭りの演目や古典的な琉球舞踊の披露、アイヌ側でも民族衣装に正装し、鶴の舞など様々な踊りが披露されたが、自分は子供の頃観光で訪れた洞爺湖畔のアイヌ村の観光ショーのイメージとすっかりオーバーラップしてしまい、どこか素直にみれなかった。
南と北の人々の交流は、互いを認め盛り上がってはいたけれど、竹富の人は、自ずと口笛で囃すほどには、アイヌの舞踊に反応してはいなかった。
そんななか、アイヌの一人のお婆さんによるムックリ(口琴)の演奏がはじまった。
横隔膜を共振しながら増幅されるその独特な口琴の音色が会場に響き渡ると、やっと陽気な沖縄人の血が爆発したのか、この場に居合わせた全員が堰を切って一勢に乱舞する盛り上がりとなった。
気付くと自分の体も自然にうずき出し、確かに理屈ではないのだと口琴の音色に悟った瞬間だった。

また、川村カ子トアイヌ記念館の近くにある北門中学校には、郷土研究会によるアイヌ資料展示室があり、盆の帰省の際に見せて頂いたことがあった。
資料はよくまとめられており、民話を描いた布絵本なども見られるようになっており、中学生にも、アイヌのこころの一端に触れられるような工夫がなされていた。
郷土研究会所属の生徒がアイヌの方の指導のもと、実際に自分たちで丸木舟を仕上げ試乗実験する場面の写真なども掲られており、中学生が実体を通じてアイヌの人々と交流し互いに理解し合う姿に触れ、感激した。


中学校の後に、近所の共同墓地にアイヌの墓標が見られると知り寄ってみた。

**ブログ№059 戸棚に押込めて 祭壇 
http://utinogarakuta.blog.fc2.com/blog-entry-59.html

墓の多くは、どこにでも見られるような御影石製の普通の墓が多く、また既に佛教に帰依して経文が刻まれた墓も結構見かけた。
ただ、家紋については、よくみるとマキリなどの意匠を上手く取り入れたアイヌが独自に編み出した紋様もあった。
丁度盆の墓参りと重なり、多くの家族が先祖のお詣りに来ていた。
そんななかには、あきらかに濃い容貌のアイヌと判るひとも確認はできるが、意識しなければまるで気づかないようにいたって普通の墓参だった。
特に特別な儀礼があるわけだはなく、線香を焚き献花お供えし、先祖に手を合わせ誰もが黙々と祈っていた。
アイヌの人には面識はないが、高校の時に個展で観た「砂澤ビッキ」作品展では、当人であるビッキが会場にいて、彼が一木を削んで産みだした木彫作品や、彼自身の豪快さ、眼力の強い相貌のなかに、どこか自分たちとは異なるアイヌ民族のもつ造形と気質に触れた思いがした。
ここの墓地では、そんなビッキの砂澤家の墓をはじめとした、アイヌの伝統的なスタイルの一木を刻んだ墓標も数墓みかけた。
しかし自然木の墓標は、そのままだと必然的に風化して朽ちてしまうため、いずれもそれほど古いものではなさそうだった。
整然と整備された近代的な墓園にあっては、そんな自然木の墓標も、どこかビッキの彫刻作品のように見えてしまうから不思議だ。
いわゆるアイヌの御幣的な、カミの依り代であるイナウ(削り掛け)に見るように、アイヌの墓標にも、そんな木のなかに潜む魂を引き出すような造形の一刀彫がなされていて興味深い。
アイヌは、かれらの暮らす環境に関わる、植物や動物などの自然に通じており、彼ら独自の豊かな世界観があるようだ。



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 ● 展示資料のクローズアップ     北方民族資料室。

ヨードプ <ガラガラ> 樺太; 儀礼用楽器。
獣皮衣(女性用) ニブフ(サハリン); クラカケアザラシの皮製。
カニクフ <金帯> 樺太; 樺太アイヌの女性用。
ストゥケリ <草履> 旭川・近文; ブドウ樹皮製、。

レタルペ(「白いもの」の意) 樺太; イラクサ繊維製。
筬(おさ) ; 樹皮布(アットゥシ)織り具。
サンペ、イナウル <冠> ; 儀礼用冠。
タマサイ <飾玉> 北海道; 女性用。


テンキ <小物入れ> 千島; テンキグサ(ハマニンニク)の葉茎製。
シポプ <塩入れ> 日高・沙流; がま製。
ペラ <へら> 北海道。
ペラパスイ <さじ> 北海道; 主として小児が使用。


アエオク ペ(「衣類を干す竿」の意) 日高・新冠; 手拭い掛け。
ラッチャコ <燭台> 千歳; 貝製、魚油を使用。
カサ <笠> 樺太; 木皮とイラクサなどの繊維製。
イカムハハカ <頭巾> 樺太; 防寒具、頭頂部に十字型の突起飾り(キタイヘ)がつく。

コンチ <頭巾> 北海道; 男性用。
マタンブシ <鉢巻> 石狩; 前頭部にあたる部分に刺繍を刺す。
ルウンペ <色裂置文衣> ; 和人から入手した木綿布に刺繍した晴れ着。
イチャピパ <貝庖丁> 日高・沙流;稗・粟などの穂摘み具。



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 ● 「北海道立アイヌ総合センター」

アイヌ民族の歴史認識を深めることや文化の伝承、保存の促進を図るなどを目的に設立され、民族資料展示室、図書情報資料室、保存実習室の三つの機能をもつ「北海道立アイヌ総合センター」は、北大植物園(入口側)の通りを挟んで真向かいの”かでる2・7ビル”の7階にある。
展示内容については、文化内容にもとづいたアイヌ史独自の時代区分により、隣接地域の歴史、文化との関連性と移り変わりを考えてもらうことに重点が置かれている。

アイヌ文化史では、<近現代>・<前近代古層期>・<前近代変容期>別に展示されている。
またアイヌ文化の諸相として、北海道島域・サハリン島南部域・クリル列島域のアイヌの物質文化のほか、本州域およびサハリン島北部域等の近類民族の比較資料を紹介している。



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 ● 「北海道立アイヌ総合センター」

国際先住民族年<国連による『先住民族の権利に関する国際連合宣言』(2007)>以降、『アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議』(2008)が選択され、『アイヌ製作の在り方に関する有議者懇談会』報告書を受けて、政府によって『アイヌ政策推進会議』(2009)が設置された。
行政による、アイヌ民族に対する対応や理解も、その後徐々に変化が問われている。
この施設もそんな流れの影響を受けてか、どうやらパンフレットの印刷された2010年に開室したようだ。
センターに隣接して、(社)北海道アイヌ協会、北海道アイヌ古式舞踏連合保存会の事務所が入っている。
近年各地にみられる資料館などでも、新設された展示では、先住民族であるアイヌ民族の伝統文化にスポットを照てた紹介が多く見られるようになった。
アイヌ模様を作ってみよう、地名や動植物にみられるアイヌ語の謎あてなど簡単な子供向けの企画から、大人向けの本格的なアイヌ語講座、さらにはアイヌ料理の紹介など
事務所の廊下にある掲示板には、そんな様々なアイヌ関連のイヴェントのチラシやポスターがところ狭しと貼られていた。

資料展示室にはアイヌの生活民具などの実物資料も展示はされているが比較的新しいものが多く、ここでは博物館が実物資料(一次資料)に重点を置くのとは異なり、むしろ協会の特殊性もあるのか、アイヌ民族の近現代史としての流れや、その運動を解説する内容に重点が置かれているように感じさせられた。
図書資料室は覗かなかったが、どちらかというと専門家が利用する施設のような感じだ。
一時間ほど見学したが、展示室の見学はほとんどないのか、資料展示室は閑散として誰も来なかった。
見学というと物質資料好きの自分ながら、ここでは展示されている写真パネルや、アイヌ民族関連の広報誌の表紙をながめながら、アイヌ民族が歩んできたその歴史に想いを馳せた。
北大植物園の北方民俗資料室とは、ある意味対極的な見学ではあったが、現代に連なるアイヌ民族の伝統文化を感じる点でとても参考になった。



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 ● 「北海道大学埋蔵文化財センター」   北海道大学キャンパス内

「北海道立アイヌ総合センター」の後は、北大札幌キャンパスへ移動して博物館見学とする。
お昼を学食で手早く済ませ、その向かいにある「北海道大学埋蔵文化財センター」へ向かう。
昨年は折り悪く閉室日にあたってしまい見学できず残念だったが、今回は開室していた。
北大札幌キャンパスは全域が遺跡であることから、キャンパス内で工事が行われる際には遺跡を保護するために発掘調査を実施する。小さなワンフローアーには、北大構内の遺構から出土した土器や石器などの考古資料を修復し、常時公開展示している。
構内には続縄文・擦文・アイヌ文化期の遺構が確認されている。

センターでは特別展として「サケの考古学」が開催されていて、二連のガラスケースに関連資料が展示されていた。(右中、下段)
北大構内を流れていたサクシュコトニ川、及びセロンベツ川(市街化により現在は埋没枯渇)の両川は、かつてはサケの産卵床として好条件を備え、サケが遡上していたとみられ、これらの地域の遺構からサケの骨が出土しサケ漁が行われていたと考えられている。
サケ科の骨が出土した地点や、その骨格標本、サケ科の系統分類、骨の同定、遺跡から出土したサケ科の解釈、北太平洋沿岸地域におけるサケの加工・保存・調理、などといった簡潔な展示となっていた。
サケは日本列島のみならず北洋沿岸では、重要な食料品として広く用いられ、その加工・保存・調理方法は多様で、サケの種類や生態、植生の環境、文化歴史的要因に合わせ発展した。

左下; 白老アイヌの干鮭、新潟村上の干鮭、カナダのベニザケの干鮭や薫製鮭の事例。
右下; アイヌのサケ料理、サケあらのたたき(チタタプ)と、チェプオハウ。




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 ● 「北海道大学総合文化博物館」

全学的な学術標本の集約と学内外への情報発信のために、1999年に設置された大学博物館。
札幌農学校時代から収集・保存・研究されてきた400万点にものぼる学術標本・資料が蓄積されている。
煉瓦造りの重厚な博物館の建物は、理学部設置の際に建設した旧本館(1929)で、札幌では数少ない大規模RC建築。
連続アーチ、素焼の装飾、6種類のスクラッチタイル、中央階段のアインシュタイン・ドームなど見所が多い。<学内歴史的建造物>
昨年夏のリニューアル時に、 北海道大学の12学部を紹介する展示(中下)や、博物館活動のバックヤードを見れるミュージアムラボ(左中、考古ラボ)が新設され、多目的スペースやカフェ、ショップが設けられた。

季節柄か各学部の紹介展示コーナーでは、修学旅行の団体や、受験生の姿が目立っていた。

今回はあまり時間がとれず、おのずと目指すのは3階お収蔵標本展示の見学となった。

まるで海苔巻きのような不思議な歯を持つ「束柱類(ちゅうそくるい)」のデスモスチルスは中新世時代に絶滅した水性哺乳類で。海牛やゾウに近い、あるいはウマやサイに近い等、類縁関係はまだ謎に包まれている。このデスモスチルスは北海道帝国時代に、長尾巧教授が当時の樺太、毛屯(けとん)から世界で初めて全身骨格を発見し、ウシをモデルに骨格組立したもの。世界的に見ても数少ない貴重な全身骨格標本で、ミュージアムショップでも、この一風変わった”デスモスチルスの歯”のフィギァ(税込み515円、今回は完売)は一押しの売れ筋商品となっている。<昨年は「感じる展示室」でデスモスチルスの乳歯化石の実物を手にとり見せて頂き感激でした!> (左中)

実物と見間違えるほどリアルなムラージュ(ロウ製皮膚病模型)の仕上がりに感心してしまう。 (左下)



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 ● 「北海道大学総合文化博物館」

土器、骨格標本、昆虫標本、液漬け標本、民具や音具・・・・・、こうやって写真を並べてみると好きなタイプの資料には、自ずとその傾向が表れます。

学部研究の展示コーナーでは、人類学や言語学などのコーナーで北大と交流があるのか、現代のサハ共和国(極北アジア、旧ソ連領)の生活用品が多く展示されています。
白樺樹皮製の曲木の裁縫箱(上中) 、ホムス<金属製口琴>、 ヨードプ<ウィルタのガラガラ、白樺で枠を作り中に石や骨を入れて魚皮を張る>(右中)などには、道具のなかに日本のアイヌなどと共通する北方少数民族の文化がみられ興味深い。

展示会場では、ホムス<口琴>の演奏の映像も上映されていました。
アイヌのムックリ同様に、自分も一度ホムスの演奏を聴いたことがあります。
こちらの口琴はアイヌのムックリと異なり金属製で、口琴のフレーム枠を軽く歯に押し当てて、弁の端を弾き、舌<ぜつ>を振動させる奏法です。
中央アジア、南アジア、ヨーロッパにみられる金属製口琴と同じ構造で。
長らく演奏するとその振動が脳下垂体を微妙に振動させα波が生じ、酔うがごとく心地よくなるといいます。
口琴は数ある音具のなかでも、人体そのものを共鳴体として音を拡張させる一風変わった不思議な楽器です。
ホムスの音色は、ときに馬が陰鳴くように、或いは馬が疾走するように音態模写も変幻自在に自由に変えられ、その超絶技法の演奏ぶりにすっかり驚かされたものです。
日本でも江戸時代には、ガラス製の音具であるポッピンなどと同じく、庶民に流行した口琴に対して御上が「びやぼん禁止令」(口琴禁止令)というお触れを出したことがあります。
また武蔵一宮、埼玉県大宮の氷川神社の出土遺物からは、どうやら金属製口琴の舌<ぜつ>がとれたような不思議な金属片も出土しています。
古い時代から、このような音具を通じた文化交流があった様子が偲ばれてとても興味深くおもいます。
写真にあるヨードプなどのガラガラも、実際にはどのような状況で鳴らされる音具なのかその場を是非見てみたいものです。




札幌でも一日びったり博物館、これまた全部お勧めしてしまうようでいけません。 (^_^)v  




  1. 2017/07/14(金) 20:28:05|
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363 帰省日誌 小樽





余市のあとは、バスで雨降る海岸線を見ながら小樽へむかいます。(2017年6月22日)


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 ● 小樽の町を訪れるのも数年ぶり。

北海道の交易の要であった小樽の町は、運河沿いの倉庫群や、古い石蔵など、杜氏の繁栄の時代を偲ばせる趣ある建物が残っている。
運河の周辺や町の大規模な整備がなされたのが、丁度バブルの頃。
駅舎もすっかり新しくはなってはいるものの、どこか周囲の景色に馴染んでおり良い感じです。
旧銀行や、旧日本郵船などの建物の立ち並ぶ目抜き通りを避け、裏路地に残る古い建物を見ながら、手宮線(北海道で一番最初に開通した鉄道)の廃線跡の遊歩道を歩く。
遊歩道の突きあたりが、手宮駅があった地点で、小樽市総合博物館本館<旧小樽市交通記念館に科学技術館を統合>があり、煉瓦造りの重厚な建物が建ち並んび、懐かしのSL(蒸気機関車)や列車、ラッセル車などが並んでいる。
構内には、試乗できるSLも走行しているという、次回は是非見学したい施設だ。

今回めざすのは、そのお隣の手宮洞窟、昨年訪れた余市のフゴッペ洞窟同様に、ここには古代の陰刻壁画が見られる。 (国内でみられる陰刻壁画は、フゴッペ洞窟と手宮洞窟の2箇所のみで、貴重な遺跡である)



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 ● 三角市場

駅前のすぐ隣りにある小さな市場が、三角市場。
かって早朝にフェリーで小樽に着いた際、この市場の食堂(早朝過ぎて昔はここしか開いていなかった)で幾度か海鮮定食に潮汁で腹を満たしたことがある。
市場でもアジアからの観光客の姿が目立つ、食堂も数軒増えており、誰もが一目瞭然で分かるよう、新しい店の入り口には海鮮丼など海の幸の定食写真を一堂写に並べ、メニューを選択する方式を採っている。
タラバガニはすべてロシア産。
ハッカクは比較的近年市場で売り出されるようになったという。



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 ● 古代の陰刻壁画が見られる手宮洞窟。  小樽市手宮洞窟保存館。

手宮洞窟は1886年(慶應2)相模小田原からニシン番家の建設に来ていた石工の長兵衛によって発見される。
小樽軟石(凝灰岩)が露出しているところで、建築用石材を捜している途中で偶然に、洞窟内の岩壁に様々な文様が刻まれているのに遭遇した。
この彫刻は、1878年(明治11)に榎本武揚によって学会に紹介され、ジョン・ミルン(英国人、地震・地質学者)によって初めて学術的な観察と報告がなされた。
また開拓使の渡瀬荘三郎などにより調査され、その後1921年(大正10)に、国指定史跡となった。
発見以来120年以上たち、進行する風化・剥落を防止すべく、保存修復事業がなされ、平成7年に、この「手宮洞窟保存館」が完成した。

彫刻が刻まれた時代は、今からおよそ1,600年前頃の続縄文時代中頃~後半(弥生時代終期より古墳時代初期)とされ。
北海道では、豊かな自然を背景とし、縄文文化をさらに発展させた狩猟採集文化の時期で、その文化は新潟県からサハリンまで及んでいた。

同時代の陰刻壁画が余市のフゴッペ洞窟にあり、フゴッペでは舟、魚、人などと考えられ、手宮洞窟の壁画にもそれと良く似たものがみられる。
かっては、この陰刻を巡って様々な解釈がなされ、これを「文字」とみなす件もあった。
しかし、フゴッペ洞窟の発見以来、アムール川(シベリア域)周辺に見られる、岩壁壁画とよく似た古代の彫刻であることがわかってきた。
このような岩壁画は日本海を囲むロシア、中国、朝鮮半島に見られ、手宮洞窟もこのような日本海を囲む大きな文化の流れを表すものと考えられている。
角をもつ人画は、シベリアなど北東アジア全域でかって広く見られた、シャーマン(祈祷師)を表した説があり。
手宮洞窟の4~5世紀の続縄文文化の人々が、日本海をはさみ北東アジアの交流を示した貴重な遺跡とみなされる。

真っ暗洞窟内は、保存のためか入館者が入ると自動的にあかりが点灯するしくみ。
高湿度のなか、保存カプセルのガラス越しに点灯された、陰刻壁画はライティングがあまり成功しておらず、うすぼんやりとしか壁画の形態が確認できないのが辛い。
さらに年表や関連展示物のスィッチを押してしまうと(10分ほどは点灯したまんま)、そのあかりが強すぎてガラス面に乱反射して、まったく壁画が見えなくなってしまうのが難点だ。
このレイアウトは誰が考えたものか、かなり気になってしまう。
しばし空想の時間が持ててお勧め度は三つ星なのに、壁画が素晴らしい分余計もったいなく思った。

入館料大人100円(博物館共通券(500円)だと無料)、総合博物館本館より徒歩2分。
左下は、大正時代の手宮洞窟の写真。



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 ● 小樽市総合博物館 運河館

小樽は江戸時代後半にはじまるニシン漁業と、明治時代以降の港湾整備によって発展する。
明治から大正にかけては、北海道の玄関として、また北海道随一の経済都市としてその名を轟かせた。
小樽運河は、その繁栄の象徴する存在だった。
運河館では、「近世から近代の小樽のあゆみ」を様々な角度から紹介している。
北前船や、ニシン漁業に関する資料がかなり充実している。
小樽の町が最も華やかであった、大正時代の町並みの再現コーナーの展示もある。


運河館入口。

繁栄時の小樽の写真。

消防犬「文公(ぶんこう)」、消防組に飼われていた雑種犬。
消防車の出動時では、一番に車に乗り込み、火災現場では野次馬を追い払ったり、ホースのもつれを直したりと大活躍の、小樽市民のアイドル犬。
葬儀には文公の好物キャラメルが供えられた。

船絵馬。

オタモイ遊園の絵葉書。

再現された町並み展示。

ニシン漁の漁業具など。

小樽の市街地の西側「オタモイ」地区の断崖上にあった龍宮城のような料亭がオタモイ遊園の「龍宮閣」(1933-1952)。そこで使われていた豪華な赤絵八角皿。



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 ● ニシン漁業のむかしの写真より

この作業写真と陳列されている漁労民具を比較して観ると、ニシン漁がさらに良く理解できる。



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  ● 「鰊盛業屏風」(部分)ほか

日本画家によるこの屏風も、漁労の流れを詳細に描写している。
人の動きや道具の細部など写真と見比べてみるものたのしい。



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 ● 第2展示室  自然展示より。

マイマイカブリ(オサムシ科)は地域によって変異体が多くみられる。

雪の上の虫の写真はセッケイカワゲラ。0℃前後の気温で最も活発になる昆虫。真冬にしか活動しない変わった昆虫で、小樽では、ユキクロカワゲラ(翅のない種類)とオカモトクロカワゲラ(翅のある種類)が確認される。

小樽に生息する動植物を中心に、複雑で多様な小樽の自然を紹介している。
展示室中央にあるトドの骨格標本は、銭函海岸に漂着した野生個体。



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 ● 第2展示室  考古展示より。

小樽市西部にある忍路土場遺跡(縄文時代後期・約3,500年前)の発掘土器が一堂に並ぶ。
その量に圧巻。土器に刻まれた文様など、様々なパターンがみられ、細部を見比べていくと時間がいくらあっても足りないほどの情報が含まれている。
発火具や漆製品など当時を知る貴重な資料も公開されている。


余市のあとに寄った小樽では、博物館資料を観るだけで時間を費やしてしまったけど、ふるくから残る町並みや建物などを、いまいちどじっくりと見学したいものだ。




観光客に人気があるのも納得、小樽はなんとも風情のある町でした! 




  1. 2017/07/13(木) 23:12:47|
  2. 雑 閑
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362 帰省日誌 余市





帰道翌日(2017年6月22日)は、小樽よりローカル線の長万部(おしゃまんべ)行きの各駅列車に乗り換え余市へ行ってみました。
余市も一年ぶり、昨年は蘭島駅で途中下車して、日本では希有な続縄文文化の線刻壁画が残るフゴッペ洞窟を観に海岸線をひたすら歩き、さらに余市の町に入るまで随分手こずったおぼえがありますが、列車ですと蘭島を過ぎるとあっという間に余市に到着です。



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 ● 余市も一年ぶり。

長万部線は2両編成のローカル線。
ニッカウヰスキーのマッサン効果か、車内では余市に向かうアジアからの観光客も多く、中国語やタイ語が飛び交います。
服装や持ち物しぐさなどをよく観察すると、やはり日本人旅行者とは似ているようで随分と異なっています。
余市駅に到着すると、すかさずアジアグループはカメラを構えての記念撮影。
そんな観光での記念写真を撮っている人の姿を撮るのが好きで、お登りさん気分でこちらも彼らの後ろにまわりカメラを構えるもタイミングが合わず残念。
札幌よりSUICAで入ったけど、どうやらこの路線はICカードが使えず、大勢の観光客で溢れ改札での精算に手こずります。

ニッカウヰスキー工場へは駅舎を出れば直ぐなのですが、よくみると駅舎の2階にはスキージャンプ記念室があり、ついでながら寄ってみました。
誰もいないがら~んとしたワンフロアーには、歴代のジャンプ競技の装具や写真がずらりと並んでいます。
人っこ一人いない、このなんともいえない閑散さ、好きだなぁ!
そういえばこの町からは有名なジャンプ選手も結構出ていたのだなぁと、サイン色紙を見ながらしばし納得。
スキー板やビンディング、ヘルメットやゴーグル、グラブ、シューズにウェア。
現代の気流力学も計算された最新鋭の装備に比べ、ジャンプ競技の初期の頃は、ほとんど丸腰姿で宙を飛んでいたのだなぁと、額装された写真を見て感心。
その飛翔フォームは、初期のころには鳥が羽ばたくようにバタバタしているポーズの写真もあります。
札幌オリンピック(1972年)のジャンプ競技での英雄・笠谷選手も余市の出身、毛糸の帽子姿で宙を舞ってます。
余市には道の駅のとなりに、現在宇宙記念館・スペース童夢があり、そういえば宇宙飛行士の毛利さんもこの町の出身。
「ジャンプのはじまり未来へ」と謳われたこの記念室、スペースシャトルが飛ぶまでは、町として一番アピールできる施設だったのかもしれません。
余市といえば、ニッカウヰスキーと鮎生息地の北限ということぐらいしか知らなかったけど、あらためて宙に通じた世界に開かれた町だったのですね。



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 ● ニッカウヰスキー余市醸造所

今回の余市は、一応博物館を観に来たのですが。
その帰りにでも寄ろうとおもっていたニッカウヰスキーながら、どうしても前を通り過ぎてしまうので、急遽予定変更。
雨空の余市は意外と寒い、景気付けにこちらで先に喉にお湿りを与え、体を温めることにしました。

受付で自由見学を告げるも、いまでは試飲のために、お一人様一枚の試飲カードの提出が必要という新ルールとなり、ウェイティングルームで手続きをしに向かいます。
ここでは丁度グループツアーの解説中でしたので、ついでながらコンパニオンの解説シーンも撮っておく。
そのジャケットは、ウイスキーの本場スコットランド風に赤と黒のタータン・チェック格子と、なかなかお洒落なデザインです。

醸造所内、かって知ったるルートで、スティームポット、貯蔵蔵などを早足で巡ります。



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 ● バー・ラウンジ、展示品と写真など。

企業名”ニッカ”とは、云わずと知れた「大日本果汁株式會社」の略称。
創業当初を彷彿とさせるような、林檎汁の当時のポスターや工場内の写真が目を惹きます。
そんな点をキーワードに見ていくと、変わったものでは、手動のリンゴ皮むき機がありました。
この皮むき機、リンゴをひとつずつ手包丁で剥くよりは、鉛筆削り機のように簡便な構造ですが、はたしてどれほど生産性があったものか?
昭和12年発売、実際にはどれほど使われた道具だったのか疑問です。
効率を求めどこまでを追求し、手の延長として合理化させて道具化していくのか、そんな点を考えながら、歯車やそれに連動する刃のしくみを観察してみると、この皮むき機も、道具としてなかなか面白い存在です。
同様に、和洋の道具が混在してみられる樽作りのコーナーも、興味深く拝見しました。



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 ● 試飲会場にて。

レストランや売店、試飲会場のあるブースは敷地内の一番奥側、駐車場の側にあります。
大型の観光バスで乗り入れて、醸造所内をくまなく見学後に、最後に試飲とお土産という日本の正しい観光の流れを踏襲した施設ながら。
個人見学者は入口から入り、試飲会場までと醸造所内を長く歩くコースとなります。
昨年度は、お目当ての醸造所内限定販売のウィスキーをゲットする目的がありましたが、今回はみえみえの試飲のみが目的、真面目な正しい見学客を装いつつも、どこか小さくなってそそくさと会場へ向かいます。

海外勢では近年はアジアンパワーが根強いものの、日本のウイスキーも国際的に評価されてきたのか、欧米系の見学者も若干みられます。
かってのアジアの旅では、ウィスキーとは名ばかりの米から作った着色蒸留酒も幾度か飲み、後悔したものですが。
アジアの各国でも、本物のウィスキーの人気が高まっているのを感じます。
ウィスキーの本場英国に倣い、気候風土のよく似た北海道の大地で育まれた日本のウィスキーも、100年を待たずして世界的な評価にまで達しました、ドラマのマッサン効果も加わり、醸造所見学は余市一の人気スポットとなりました。

試飲会場では、受付で試飲カードを提出後トレーを受け、竹鶴・シングルモルト・アップルワインの3種類が配給されます。
氷や水、ソーダー水はご自由に、ほかにもソフトドリンクとしてウーロン茶やリンゴジュースがあります、おつまみは自販機で有料です。
試飲はお一人様一回一杯ずつ、配給カウンター脇には柵が垣されての一方通行、以前のようにお酒をその都度自由にお代わりできないシステムになりました。
窓辺の席に陣取り、一人文庫本を読みながら数回のお代わりのローテーションをへて、静かにグラスを傾けるような至福の一時は得れなくなってしまったのが少々残念。
なかにはお代わりをズルしているオジサンも見かけますが、大人気ないのでやめておきます。
といっても、逆に少量であるからこその価値ある一杯。
樽形のグラスに被せてある紙蓋を開け、スノージングしてその薫香を愉しみ、琥珀色の液体を舌の上にゆっくり転がし味わいます。
リンゴ酒では巷にシードルは溢れているけれど、アップルワインとして、リンゴをワインとして作ったのはニッカが世界最初だったとか、確かそんな一文が以前読んだ谷村志穂のリンゴ紀行に載っていたような・・・・・・・。
アップルワインは、度数も普通のワインよりは幾分高めで、リンゴ独特の芳香が楽しめます。
道民にとっては、どこか懐かしいニッカのアップルワインです。
シングルモルトと竹鶴、各々を水チェイサーで味比べ、窓越しに見える木々は北海道らしい白樺などの樺系の樹種、クールにテースティングしながらも、微量に得たアルコールで幾分上気した面持ちで博物館へと移動します。



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 ● よいち水産博物館

ニッカウヰスキー醸造所より歩くこと15分、余市川を渡り役場向かいの小高いモイレ山の上に建つ博物館に到着。
博物館は北海道百年地域記念事業の一環として昭和44年に開館、和船の艫先が突き出たその独特な建物は、内部の展示方法もやはりその時代ならではのアナログ式で、なんとも懐かしくなるレトロな博物館です。
途中で見かけた道の駅に付随する余市宇宙記念館などの、現代的な大型の集客施設にくらべ、未だに未舗装で、今日のような雨の日はしっかり雨溜まりができてしまう駐車場のこの施設。
市内観光では、共通割引券で博物館もアピールしてはいるものの、団体観光客が訪れるのは、どうしても駐車の便がよく、大型のモールでお目当てのお土産が買えるような総合施設や景勝地に限られるようで。
こちらも先にみたスキージャンプ記念室同様に、見学者もほとんどいなく閑散としています。
むしろ人がいない点が見学には好ましく、観光客特有の勝手な戯言に害されることもなく、逆にじっくり資料観察に没入できる、まさに独り占めの空間。
博物館好きには、こういったタイミングと、いささか時代に取り残されたようなちょっとした展示の古くささも、見学の魅力としてポイントが大きく加算されます。
地域の基礎をつくったニシン漁などの漁労具や、生活用品などの郷土資料を中心に、アイヌ関連の資料と付設考古資料展示室(余市町歴史民俗資料館、昭和54年開館)があり、よく観ると、どうして、この空間に結構な貴重な資料を所蔵しています。

むかしの役場に掲げられていた市標も堂々と陳列されていて、開館当初は町を挙げて待て囃された文化施設だったことが偲ばれます。

北国のウイスキーの発祥の地余市らしく、入口の「よいち水産博物館」のプレート前にも、ウイスキー醸造所にあるスチームポットの模型などの資料が一部紹介されていますが、ウイスキー関連資料の紹介はニッカウヰスキー醸造所に譲り、ここでは地域の基幹産業となったリンゴ栽培に関する周辺資料がコーナー展示されていました。



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 ● 江戸時代に奉納された船絵馬や、リンゴ関連の資料。

1段目; 海の道、江戸時代から明治時代まで、人や物資を運んだ主役は海上運送です。
航海安全を祈願して、神社に奉納されたその船絵馬には、越後や若狭など北陸地方の地名が確認できます。

2段目ちょっともこもことした手提げ鞄は、よく見たらゴマフアザラシの皮が貼られた珍しいものでした、なんともいえないそのお洒落感覚に脱帽。

余市は、旧会津藩士団体によって開拓された一面があり、1979(明治12)年、はじめてリンゴが実ります。
余市で初めて実ったリンゴは、アメリカ産の品種の19号、49 号など。
初年度は数個の結実だったものの、やがて一本のリンゴの木から50Kgほども収穫できるように収量が高まります。
後に19号が「緋ノ衣」、49号が「国光」と名付けられ。
余市リンゴの販路が広がったのは明治30年代後半で、栽培面積の拡大と鉄路の余市駅開業が重なった時期です。
当時の年生産高は北海道全体の3割を超える量で、これまで船で運ばれたリンゴは鉄路で内陸までくまなく運ばれるように、その流れが大きく変わります。
余市の生産者による貨車輸送は大正10年頃からはじまり、専門のリンゴ問屋が生まれます。
余市駅開業(明治35年)後は、すぐにリンゴの駅売りがはじまり、そのリンゴ容器もカゴ入りから、町内で木綿糸製の網袋が考案され、全国からその網袋の問い合わせが殺到したといいます。
展示資料では、掛け袋の三角袋とその製作具、選定型、リンゴの摘みカゴ、リンゴ箱に貼られていたなかなか凝ったデザインのラベルなどがみられました。
「国光」という名前は子供ごころに記憶があります。
ほかにも「いんど」(どういう字を充てるかは不明)、「紅玉」など、芯に蜜が入るデリシャスやスターキングなどが登場する以前のリンゴは、籾殻の敷き詰められたリンゴ箱に綺麗に納まり、素朴な味がしたものです。
いまのリンゴはほとんどがフジとの交配種といいますから、当時のリンゴの酸味の効いた素朴な品種の味がなんとも懐かしいかぎりです。
冬場に暖をとりながらストーヴに乗せ、バターをたっぷり芯に詰めてつくる焼きリンゴが、当時の子ども達にとっては、嬉しいばかりの北国のおやつでした。
余談ながら、リンゴ箱といえば、以前六本木の21+デザインギャラリーで観た「東北の手しごと」展では、青森のリンゴ箱職人作業風景姿に、現代的なラップミュージックのBGMを職人の槌打ち姿にシンクロさせた、とてもスタイリッシュな映像でした。
会場では、こうして仕上がったリンゴ箱をうずたかく積み上げ、オブジェ風に演出していました。
また近頃借りたDVD、ザザ・ウルシャゼ監督のジョージア映画「みかんの丘」”TANGERINES” (2013)でも、冒頭シーンで主人公であるエストニア人の木箱職人の老人が作業小屋で作るミカン箱が、リンゴ箱とサイズ的にもよく似た作りでした。
渋い弦楽器の民族音楽の響べのなか、人々が去っていった寂しい村で、老人が独り寡黙に木箱を仕上げていくシーンが印象的でした。
博物館の展示ではリンゴ箱の商標や、摺り版として文字を記載するテンプレート、木箱の釘抜きなどは展示されてはいましたが、肝心の出荷箱は展示されておらず、木箱職人をはじめリンゴ箱に関する情報も幾分知りたく思いました。
このようなリンゴ箱や、いまでも魚屋で見かけるトロ箱など、運送用の出荷箱の背景も、土産物の簡易カゴ同様に注視したいポイントです。

下段; 酒や醤油を入れる容器として、江戸時代に海外へ輸出されたコンプラ瓶 (ポルトガル語のコンプラードの略称で仲買人買い付けに由来)片は市内の大川遺跡からの出土品。
こんな北国の地にあっても、このような交易品(あるいは漂着物なのか)の流通があった点が興味深いです。




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 ● アイヌ関連資料。

アイヌ関連資料にもこの館ならではの、独特なものが見られます。

左上; アイヌの衣服にみる文様にも地域性が大きく表れます。
この衣服の素地は和人との交易品の木綿の縞模様の着物で、そこに文様を刺しています。

右上; 「タマサイ」と呼ばれるガラス玉の首飾り。

左中; アイヌが豊漁を祈る儀式で使ったという「カムイギリ」は、アイヌが海の神と崇めたシャチを現した木彫りの神具で、その魚体にはアイヌ模様特有の透かしがあり下部には小さな穴が数カ所確認でき、配下として海獣や魚などの木彫りが提げられていたとされている。
カムイギリは余市から留萌管内にかけての海岸沿いのコタン(集落)の長の家に代々宝物として受け継がれてきたが現存するものは非常に少ないといいます。
その材の古さから明治頃の作と云われ、蒐集家の考証のもと札幌の骨董屋から見出されて、博物館に寄贈されるという独自の経緯をたどる資料で、2009年当時のその新聞記事、別の再現資料とともに並べて展示されていました。

右中; 鹿角製飾り太刀には細やかな模様が施されていています。

左下; 古い写真は余市で見られたアイヌの墓標、『蝦夷往来』より。
墓標のかたちは男女の別と地域性があり、それぞれ随分と異なっているようです。


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 ● 日本海を周航していた北前船(弁財船)の模型、ニシン漁に関したジオラマや絵図の資料。

水産博物館の目玉は、やはりニシン漁関連の資料の豊富さでしょうか。
館内では当時のニシン漁で使われたさまざまな道具が展示されています。

北海道ニシン地方別漁獲高(右上)のグラフにみる通り、ニシン漁の活況は江戸時代から昭和30年頃まで続きます、そのピークは大正時代です。
『湯内漁場盛業俯瞰図』 (左上、部分)をはじめ、明治時代の賑やかな漁の様子が描かれた絵図が残されています。
当時の漁場を再現したジオラマや油絵も昭和時代開館の博物館らしく、手作り感であふれてなかなか素敵です。
板材による指物製の「モッコ」 (左下)には、それぞれの親方の印が記されています。
このモッコでニシンを陸まで背負って運びます。
ニシンは主に肥料として利用され、陸揚げされたニシンを大型のニシンナベで煮て、角胴や丸胴と呼ばれる絞り機でしぼり乾燥させて肥料に加工しました。
館内には、絵図にあるようなそんな大型の加工道具も漏らさず展示されています。
写真(右下)は、ニシン沖場箱詰の様子です(大正4年)、ニシン漁で栄えた時代の活気溢れる浜辺の光景です。



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 ● ちょっと気になったニシン関連資料など。

この博物館も二度目の見学ながら、改らたに気になる資料がありました。

上; 座り作業のイラストが付された「したしき」も、そんな資料のひとつで、ニシンつぶしの作業に使う汚物を避け用の膝当てですが。
よく見ると俵状の茣蓙編みの間に樺皮が挟み込まれていて、膝への防汚効果を高めた作りとなっています。
樺皮は火点きが良いため、点け木の役割の需要があるのは知っていましたが、いまではビニール一枚あれば事足りてしまう問題ながらも、このような木の剥皮の利用も面白く観察しました。

中; 「粕クダキ」は把手を回せば、内部にはまるで拷問道具のような構造の鉄歯が納まり、圧搾されたニシン粕を細かく粉砕する道具のようです。
資料にはNHKの「マッサン」に貸し出したという”○マ”マークが付いており、周囲を見回すとこのマークが付いた資料も結構な数がみられます。
昨年はこのマークにまるで気付かず、無頓着だったけれど、今回昨年撮った写真を見直してみると、似たようなアングルでもってカットも同じような写真を撮影していたことが判明しました。
意識して観ることで見えてくる、その認識の不思議さを改めて感じさせられた思いです。

右下;弧状に微妙なカーブがついた木製の万力は「身欠き結束機」です。
身欠きニシン100本を1把として結束し出荷しました。
結束紐として用いられているのは、シナノキなどの靱皮繊維でしょうか?

このコーナーで流れるBGMは、ただひたすらに繰り返されるニシン漁の労働歌であるソーラン節です。
ソーラン節といえば小学校の鼓笛隊での選択曲で、ぴーひょろといった笛のイメージが強かったのですが、真面目に耳を傾けるたのはその時以来のことです。
編曲されて現代民謡となったソーラン節は、正調ソーラン節とはまるで異なった唄です。
お国訛りが激しく、言葉の半分ほどは何を言っているのかまるでわかりません。
こぶしの効いた淡々とした胴元の渋い歌声に呼応する合いの手、どこか懐かしい調子の響きに一度はまると、沖間で揺れる船上で身体が自然と網を引き揚げるようなそのリズムに馴染んでしまい、労働の場にトリップしていくような錯覚にとらわれます。
この感覚は、以前、酒造博物館の酒蔵で酒造民具の実測をしていていたときに、繰り返し流れていた、杜氏による仕込み歌同様に、就労の臨場感をもたらし悪くありません。
何節にも及び繰り返される、歌詞のリフレインは、労働の作業量と時を計る役割を兼ねているようです。
数ある博物館の展示では、展示内容とはまったく無縁で、時に場違いなヒーリングミュージックや、オルゴールが奏でる妙にメルヘンチックな甘いメロディーなどがBGMとして用いられているケースも多く、その選曲と音量に展示物の鑑賞に干渉する経験も多くありました。
趣向の違いはあるものの、塩梅というのは難しいもので、時に名曲も音害と表裏一体となることも珍しくありません。
ニシン漁で、実際に唄い継がれてきたソーラン節は、まさに活きた音源資料であり、ここでは最適な組み合わせでした。



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 ● 考古関連資料も充実している。

博物館資料の最後は、付設の歴史民俗資料室にずらりと並ぶ考古資料です。

右上; やはり何といっても興味深いのは、昨年中心に観た、国内では希有な多くの線刻画がみられる国指定史跡のフゴッペ洞窟関連の資料写真と、出土土器(続縄文時代)です。(奥の展示コーナーにあるもの)

左中上段; 天内山(あまうちやま)遺跡の遺構と出土遺物は、昭和51年に北海道指定文化財となったもので、10基の墓抗が発掘され、その形態から3つの様式に分類されています。
土器の形式<後北式土器・約1500年前、擦文式土器・約1000年前)>によって長期にわたってこの大地が墓地に利用されていたことが伺い知れます。
貝塚はアイヌ文化期(江戸時代末~明治時代初期)のもので、アイヌ文化期の遺物として、鉄鍋片、キセル雁首、マキリ(刀子)、舟釘、首輪、骨角器、石製円環などが貝塚および台地上から出土しました。

右中上段; フゴッペ貝塚出土の円筒土器(縄文時代前期)

左中下段; フゴッペ貝塚出土の十字架土偶は、竪穴住居の床面から出土した高さ5.7㎝の小型なもので、額や体の部分表現は見られず、全体の形はまるでヒトデのようです。
腕と思われる部分には縦方向に貫通孔があり、紐を通してぶら下げた可能性があるといわれます。

右中下段; 手形・足形付き土版は、土偶などに比べると全国的にみても数十点の発見と大変数が少なく。
縄文土器や土偶製作に比べ、簡単に製作できる土版ながらもなぜこんなにも発見されないのか、その理由も謎のままです。
発見されたものは、ほぼ縄文時代の全期間にまたがっており、多くは東日本で集中的に発見されています。
そのほとんの手形・足形が幼児や子供のものであることから、子供の健やかな生長を願うお守りや、魔除け、通過儀礼的な意味で作られたのではないかと考えられています。
この土版のように、貫通させた小孔があるものも多く、紐を通して吊り下げたものとみられます。

下段; 安芸(あき)遺跡は縄文時代後期(約3500年前)の遺物が主体となった遺跡といわれます。
この遺跡からは、土器、土製品、石器、石製品、漆器、木製品、建築材など約12万点が出土しています。
低湿地であることから、沢山の木製品が長く水中に残されており、このように木製品が多量に出土していることは、縄文人が石器を利用して、木材の伐採や加工をしていたことが分かります。
また、スタンプ状土製品やオロシガネ状土製品、オロシガネ状石皿なども出土しており、四脚付石皿では丁寧に脚が作り出されており、日常的な器ではなく儀礼との関連が強い道具と推測されています。

昨年の見学では、とても細長い独特の形態で朱色で描かれた文様が散りばめられている、沢町遺跡出土の徳利形土器(縄文時代晩期)のような珍しい資料に初めて接し、感激しましたが。
今回は展示室にある分だけでも、余市の町から出土した<町内には60以上の遺跡が確認されている>一見同じように見えても各々微妙に異なる、考古遺物の多様さに目を見張り感心されっぱなしでした。
先の恵庭市郷土資料館で観た考古資料もそうでしたが、北海道だけでも、地域や時代によって様々な土器のスタイルがあるのを識り、残された遺物の断片から全体像を考察する考古の世界では、多くのキーワードを含み、そこから様々な視点での考察眼が養われていくようで、美学的な実物鑑賞とはまた一風異なる世界が広がっていき、その点が大変面白く感じました。
現代人の知り得ない縄文人の世界観、はなんと魅力に満ちているのでしょう、空想癖のボルテージが高まる一時となりました。




このようなローカルな博物館もお勧めです!! !(^^)!  




  
  1. 2017/07/11(火) 13:46:37|
  2. 雑 閑
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361 帰省日誌 恵庭






郷里に帰省していました、しばらくぶりのブログです。
今回の北海道は千歳IN。
昨年観た北海道埋蔵文化財センターの展示では、恵庭市のカリンバ遺跡出土の漆製品などの一部が紹介されていたのを思い出し、札幌へ向かう途中の恵み野駅で途中下車。
カリンバ遺跡の遺物を所蔵する、恵庭市郷土資料館へ寄ってみました。



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 ● 「恵庭市郷土資料館」 北海道恵庭市南島松

各駅停車の恵の駅下車、郷土資料館へは約2㎞。
この駅で下車したのも今回が初めて、北海道らしい車道のようにだだっ広い歩道をちんたらと歩くこと30分、ようやく郷土資料館に到着です。



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 ● 「カリンバ遺跡資料」収蔵陳列室

カリンバとはアイヌ語で「桜の木の皮」という意味。
カリンバ遺跡は、カリンバ川が流れる低地面と、それより2~3mほど高い段丘面に残された縄文時代から近世アイヌ文化期の遺跡です。
とくに、縄文時代後期末から晩期初め(今から約3000年前)の頃の漆製品を多数納めた合葬墓は、全国的にも珍しく、平成17年に国の史跡に指定される。  

『 赤いウルシのアクセサリー ~縄文時代で最も豪華な墓~ 』 のキャッチフレーズで土抗墓の副葬品、装身具などが展示されている。

3,000㎡ の発掘区域に300基を越える縄文時代の土抗と5軒の竪穴住居跡が確認。



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 ● 漆の装身具は、朱色も鮮やかに残り見応えがある。

おもな副葬品のうち、漆製品では櫛52、頭飾り・額飾り10、耳飾り7、腕輪33、腰飾り帯2が出土。
ほかにも、滑石・琥珀・翡翠製の勾玉や小玉の飾り玉、赤く彩色した土製の玉などが多く出土。
イラストの図からも解るように、櫛や腕輪などの豪華な漆製品のアクセサリーを多数纏い埋葬された様子が伺える。
櫛や腕輪など多種に及ぶ装身具は、いずれも透かしなどにみる装飾文様が微妙に異なっており、縄文人の豊かな感性と想像力を感じることができる。
左上2段目の漆器の頭飾りに見られる白い三角形はサメの歯。
体長約5mと推定されるホオジロザメの歯(2.6×2.4㎝)は額飾り「ヘッドバンド」として用いられたが、漆器が漆部分のみを残すのと同じく、サメの歯は表面のエナメル質が薄皮のように微妙に残されている状態だ。

赤いベンガラが一面に敷き詰められ、赤やピンク、朱色の漆製品が色鮮やかに出現したという墓は、縄文人の赤い色に対する特別な思いが感じられるようで興味深い。
縄文の漆器製品も、これだけの数が一堂に揃うと、その展示に圧倒される。
また展示では直径1m半ほどの土抗墓の実物模型も2基並び、写真パネル以外にも副葬品の出土状況がより良く理解できるよう工夫されている。



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 ● カリンバ遺跡出土の土器類

上; 注口土器は、注ぎ口の下に施された玉状飾りがどこか男性器表現のように見えてしまう。
下; 80基墓の上からさかさまで出土した壺。



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 ● 常設展示室 第2部 先住の人びと

恵庭に人が住み始めたのは約7千年前。
縄文文化、続縄文文化、擦文文化と、土器のかたちや装飾も北海道ならではの地域性がみられ興味深い。
中下; 土器に描かれた模様。 北大Ⅱ式土器 続縄文時代後半 ユカンボシE遺跡。
下 ; 手形付土製品 縄文晩期 柏木川4遺跡 (恵庭市指定文化財)



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 ● 常設展示室 第3部 アイヌモシリ

13世紀頃、擦文文化がオホーツク文化と本州や大陸の影響を受け、アイヌ文化へと移り変わる。

イナウ(削り掛け)、丸木舟、岩窟のヌササシなど



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 ● 常設展示室 第3部 アイヌモシリ

衣服の素地(古着)、漆器、タマサイ(玉飾り)のガラス玉など、交易によってアイヌにもたらされた物も多い。



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 ● 常設展示室 第4・5部 大地をひらく・村から町、そして市へ

トンビという独特な開墾鍬や蛸足式播種器など、北の大地を拓く地域性を感じさせる民具も多い。
くらしの再現コーナーで展示されていた箪笥は佐渡箪笥。
切り出した木材の運搬用のインクライン模型が目をひく。
婦人倶楽部12月号附録の防寒毛織物全集には、カンダハー式スキーを手にするニット美人、手に穿くミトンがお洒落です。


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 ● 常設展示室 第4・5部 大地をひらく・村から町、そして市へ

左上; バター攪拌機
右上; 貝皿(戦時中の代用品)
左下; 陶製おろしがね(戦時中の代用品)、魚油の石けん(戦時中の配給品)
右下; 洗濯板

木樽に牛乳を容れてベルト動力で回転(チャーニング)させるバター攪拌機。ホタテ貝の殻をそのまま転用した食器。洗濯板には木枠の桟にネマガリダケを指した作りなど、どこか北海道的な民具もみられた。

陶製おろしがねは、どうやら過去ログに載せた日本海軍マーク付のおろしがねと同様のものと判明。

**ブログ№303 銭コがあると 
http://utinogarakuta.blog.fc2.com/blog-entry-303.html



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 ● 色や模様がそれぞれ異なっている漆の櫛。

縄文時代の土器をみていていつも思うのだけど、それぞれの地域と時代の型を継承しながらも、各々は、それぞれかたちが微妙に異なっていてまったく同じものがない。
漆の櫛の透かし模様も同様に、似ているけれどどれもが違ったデザインになっている。
これまで、縄文時代の漆器櫛では、若狭で鳥浜貝塚出土の櫛を観たなど、数点単位でしかみたことがなかったけれど。
今回このカリンバ遺跡出土の漆製装身具が一堂に観れてとても満足でした。
縄文人の漆の植物利用はどのようなものであったのか、そんなことを想起しながら、実物が残りにくい遺物の木製品や繊維・編組品などをみる楽しみが増しました。
同じ遺跡の出土であっても、漆製品の色に微妙な幅(或いは保存の問題か?)があったりと、実物を前に考えさせられること色々で、大変勉強になりました。
史跡カリンバ遺跡は、JR恵庭駅前(北へ800m)のカリンバ自然公園にあるので、次回千歳空港利用の際は是非寄ってみたいものです。




カリンバ遺跡出土の漆製品、お勧めです!! !(^^)!  







  1. 2017/07/08(土) 20:47:36|
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360 なんとなく寄ってみたら





先日(2017年6月17日)、三鷹のICUの湯浅八郎記念館の『バンクス植物図譜』展を観た帰り、なんとなく寄ってみたのが、小金井にある東京農工大学科学博物館。

農工大の科学博物館は、この前までは「繊維博物館」の名称で呼ばれ、その前身は明治19年(1886)農商務省の蚕病試験場に設置された「参考品陳列場」にまで遡り。
旧繊維博物館から受け継いだ養蚕関係の資料を中心に、繊維などの素材・道具・機械類や、養蚕・製糸・機織をテーマにする江戸時代から明治時代の錦絵や生糸商標などの展示。
機械展示室には、工学部を持つ大学らしく、明治期から現代にかけての製糸・紡績・織機・編機などの大型機械が展示されていて圧巻される。
機械のほとんどは稼働可能な状態で保存されており、定期的に行われる動態展示が必見です。


通常は見学者もそれほど多くはない館内なのに、この日は随分混んでいる、なんの催しかなぁと思ったらオープンキャンパスでした。
普段は、多分前職が業界出身と思われる渋いお年寄りの解説員の方が、1Fの機械展示室に常駐して機械のメンテナンスにあたっていて。
質うと、場合によっては実際に機械を動かして、とてもマニアックに解説してくれる。
そんな渋い雰囲気が、自分としては結構好きだったわけですが。
さすがに本日はオープンキャンパスで、博物館内も募集生向けのツアー案内はじめ、全学挙げての盛り上がりで、いつもと異なりとても華やいでいました。



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 ● 企画展示室でみたロボットなど。

手仕事の延長線上にあるような、機械機械したものが好きなのですが。
まず今回ここで出会ったのが、このような先端研究のロボットなどでした。

右上; コンプレッサ搭載型飛躍ロボット。
左下; 人間の土踏まずを真似したロボット足装具。凸凹面の歩行が可能。
右下; 人の表情を見て振る舞いを決める。
カメラで撮った顔面像から判断し、ヒトが心地よいと感じる振る舞いができる。




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 ● 教育研究展示室にて

こちらは主に教員の研究テーマを紹介したコーナー。
先で見たロボットの開発などの研究も紹介もみられましたが、やはり目を惹いたのがこの「電卓のあゆみ」のコーナー。
算盤や、計算尺、手回し計算機に並んで、随分とごつい機械が見えます。
まるでスーパーマーケットの会計にある、レジスターのようなその大きさに驚かされます。といっても、当時はこんな大型の電卓でも、この機種では√計算が出来るようになって、なにか特別な計算をする向きで、その高価な価格からみても個人とは全く無縁の代物です。
それがいつしか、懐かしのCM「答え一発カシオミニ♪」でお馴染みの家庭向け電卓が登場しますが、こちらもいま見るとまるで弁当箱のように分厚く大きなサイズです。
パソコンや携帯電話など、日進月歩の進化は目覚ましく、そのボディーはコンパクトに薄く小さくが当たり前の状況ですから、改めてついこの間まではこんなんだったのだなぁとプロトタイプな機械に驚かされます。

 中段; √(ルート)001   1966年   CASIO 435,000円  16.5㎏
世界で初めて平方根(√)の計算機能を持った電卓。
トランジスタと集積回路を併用している。
記憶装置と7桁の定数ダイアルを備えた世界最初の電卓。

 左下; Brunsviga 11S Brunsviga Werker社製  約8㎏
ドイツ製の伝導機械式計算機。機械式計算機の手動ハンドルの代わりに、歯車を電動モーターで回転させることにより計算を行う。

 右下; カシオ7ミニCM-602 1973年  CASIO 12,800円
家庭用小型電卓カシオミニ(1972年発売)のシリーズ3代目。
初代カシオミニの価格を従来の3分の1以下に抑えたことで、個人使用者に受け入れられた。販売台数は1年間で200万台、ここから「電卓戦争」はさらに激化する。




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 ● 蚕の模型など   繊維関係展示室より

野蚕や家蚕など明治時代の図絵、
幼虫模型は上部が蓋状になっていて、外すと内部の様子が確認出来る凝った作り。
糸を吐き繭を作る様子が、どこかモスラを連想させる動きです。



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 ● 古風な展示ケースに収められている世界各地の繭の標本    繊維関係展示室より

蚕病試験場時代の展示室(古い写真)にみる展示標本の一部が、そのまま残されています。
古風な木製ガラスケースが、とても美しいです。
博物館の展示でも、ここが一番のお気に入りコーナーです。
繭のサンプルも、長いもの、まるいものと形もさまざまで、漢字や仮名で書かれた国名や地名のなかに往時の呼称も併せて楽しめます。



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 ● 製糸機など

 糸を繰る/製糸;
蚕の繭から生糸を作ること。長さ1200 ~1500メートルある繭糸をほぐし、数本を挽き揃えながら1本の生糸を作る。

1 乾燥  ; 繭を乾燥させ中の蛹を殺し、保存できる状態にする。
2 選繭  ; 繭の品質を一定にする。色つやや形態別に選別し、不良繭は取り除く。
3 煮繭  ; 繭糸同士の接着を和らげるために、熱湯や蒸気によって繭を煮る。
4 索緒  ; 煮た繭から糸を探して引き出す。
5 揚げ返し; 生糸の固着を防ぐため、巻き取った生糸を周長150㎝の大枠に乾燥させながら巻き返えす。糸が乱れないように数カ所を留め、枠から外して綛(かせ)を作り、20~24本を束ねて出荷する。



数個の繭から糸口を引き出し縒りをかけて一本の生糸に仕上げます。
 左上; 以前「東京シルク展」で見た、昔ながらの手作業での製糸作業の様子。

右上、中段; ニッサンHR型自動製糸機。
見学者を前に、係りの方が熱弁を奮っていたのがこの製糸機。
手作業の職人芸とは異なり、機械としての在り方とノルマがいかに優れているか、この機械には300以上もの特許があるという。
説明のほうは途中からだったので、あまりよく解らなかったけど、実際にこの機械が動いているのを初めてみた。
繭は各々湯がはられた小箱に入り、回転寿司状態でぐるぐると周囲を環っている。
糸がなくなると補給用の爪ががしゃんと飛び出て、繭から糸を一本だけさらっていくという精巧な仕組み。
機械化されて効率は格段に高まったものの、索緒工程では手挽き時代となんら変わらないわらミゴ箒が機械に取付けられていたり、糸通しの箇所は小さな白磁の皿に開いた孔に渡すなど変わらない箇所も見られる。

左下; 御法川式多条繰糸機
作業者が立って繭から生糸を取り出す装置。1火と当たり20~40の口数(条数)を受け持つ、手作業としては画期的な機械。繰糸湯が比較的低温でゆっくりと繰糸することで、ムラのない高級な生糸を作ることが出来た。
この機械の出現により、日本の製糸法は一変し、生糸を中心とする周辺技術を巻き込んで製糸技術が飛躍的に発展した。また。それまでの能率至上主義だった日本の経営姿勢を、品質第一に転換させるきっかけとなった。

右下; シンクの部分が、鉄製のものよりは温度変化による繭の影響がより少ない、陶製シンクが採用された製糸機。



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 ● ミシンの展示

繊維博物館時代には、古い手回しミシンから、一般の家庭にみる新しい電動式ミシンまで、ミシンが一堂にずらりと並んでいてその数に驚かされた覚えがある。
現在は古いタイプのミシンを数を絞り展示している。
「なんでミシンにこんなに模様が付いているんだ・・・・・無駄じゃねぇ」と受験生らしき男子が捨て台詞を放っていたけど。<あらためて、いまはそんな時代だよなと感じさせられた>
確かに昔のミシンはとても高価なものであり、工芸的なまでに美しい装飾を施したものも多く、展示品のなかには貝象嵌の装飾を持つミシンもあり目立っている。
主婦にとっては、欲しいものの代表、三種の神器だった時代もあったのかも。
ミシンも、一時期のテレビのように家具調であるもの、使わないときには専用の掛け布を被せていたりと、一般家庭のなかではその地位が高い家財道具だった。
足踏みミシンの入れ子式の収納構造は優れた構造だったし、ミシンのフレームデザインも各社ごとに異なり目を惹いた。
家の中には、テレビのようにミシンがしっかりと鎮座する場所があり。
既製服が普及する以前の時代では、主婦にとっては自製服作りにかかせない必要な道具であり、また家に居ながらして、内職で一役買う場合もあった。
梃子の動力でで駆動する足踏みミシンの動きは、子供心にとっても興味の対象、踏んで遊んで叱られたり、その足元に入り込んで叱られた経験がある人も多いだろうか。
電動ミシン登場後も、足踏みミシンをすぐに買い換えるというよりは、電動ミシンに改造して引きつづき使うケースも多かった。
鋳物でしっかりとした構造のボディー、複雑な歯車の組み合わせによって駆動するその動き、有機的なシルエットを残すこの時代のミシンはどれもが機械の魅力に溢れていた。
そして現在のコンピューター搭載による電子制御されたミシンも、動力の方式や機能の多様さの面では格段に進歩はしているが、根本的にはこの時代に生まれたミシンとなんら変わらない機構という。


左; 上糸式のみで、一本の糸をうまく絡み合わせながら縫っていくタイプの手回しミシン。
縁止めをしっかりしないと、ひっぱるとそのまま糸がずるずると解けてしまうが、その性質を生かし、簡単に開けることが出来る米袋の口縫いなどに用いられるという。

右; シンガー2本マツイ縫いミシン   シンガーミシン   昭和10年
皮手および厚手の綿シーム・ジャージ・皮手等のアウトシームに使用。
絹糸の光沢を生かした装飾性も兼ねた縫い方ができる。
下糸用のボビンケースがみられる。


シンガー、リッカー、ジュウキ、ブラザー、ジャノメ・・・・・・・・・。
どの会社だったか、小金井にはかってミシン工場があり、確か町の通りにもそんなミシン会社の社名に因む名前が残されていたはず。
小金井市にある農工大が、これほど多くのミシンを所蔵しているのは、そんなミシン会社との関連性もあるのだろうか。


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 ● 原始機(復元)の展示

最も古い方式の手織機で、たて糸や綜絖を取り付ける骨組みではなく、手や腰などの体を使って布を織る。
弥生時代から使われ、たて糸をさばく綜絖、よこ糸の杼、打ち込むための刀杼の3つの道具の集まりを、当館では「原始機」と名付けている。

下; カレン族の機織   
以前、タイのメーホンソン州でみたのがまさしくこの復元機と同じ種類の機。
床面にT字形の竹筒を配し、そこに足を当ててぴーんと踏ん張って身体を調整しながら布を織っている様子が窺える。
壁には車輪形の輪をもつ糸車が確認できる。



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 ●  自動織機


上; 足踏み編機(ウィリアム・リー編機)
1589年に、イギリスの牧師ウィリアム・リーによって発明された世界最古の編物機械。
手編みの針の動きにヒントを得て、針を直線上に並べて編める機械を発明。
ここのものは、19世紀末のイギリス製で、ウィリアム・リー編機の面影を残すもの。
使い込まれた座面の革を、幾度も留め直した痕跡のみられる螺子に注目してしまった。

下; 無停止杼換式豊田自動織機(G型)  昭和2(1923)年 
世界で初の最高性能の完全な無停止杼換式自動織機 。
高速運転中に少しもスピードを落とすことなく杼(ひ)を交換して、よこ糸を自動的に補給する自動杼交換装置をはじめ、24の自動化、保護・安全装置を連動させ、生産性を一躍20倍以上に向上させた。
戦後は、日本の機械の輸出第1号となって、外貨を獲得し、日本の復興に大きく貢献した。
本機には、その名誉に肖るごとく”JAPANESE PATENTS”の特許章が付いていた。


イギリスで蒸気機関による産業革命が興ると、いち早く採用したのが紡績や織機などの繊維関連の分野だった。
織機も、これまでの人力から、機関で動力化することによって、飛躍的な量産が可能となった。



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 ● 組紐台のいろいろ。

いつもは展示されてはいても、何気なく見るだけで通過してしまう組紐コーナーだけど、
今回のように各々の機構について比較解説してもらうと、見ていて俄然興味が湧いてきて面白い。


上; 高台(高麗台)
手織機のような横枠台があり、渡してある板の中央に座って作業をする。
180~200玉も使える台もあり、組ひもの中でも一番複雑なものを組むことができる。

中; 中国雲南省製組紐台
高麗組と同じような 組織。竹枝を糸巻きに利用し、陶器を重りにした日本では見られない珍しい組み台。

下; 籠打台(平籠打台)
組物ではなく、幅の非常に細い織物。手前で織りながら竹のヒゴを織り込んで籠状にし、織り上がった後に抜き取るのが普通の織物と違うところ。男物の羽織紐などを織るのに用いられる。籠打台はほとんど残って織らず貴重なもの。




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 ●  籠打台(平籠打台)を使った織りの様子 。

2015年の秋に、当館企画展示室で開催されていた『東京シルク展』での一場面。
台の背面では、錘を下げて糸をぴんと張っている様子がわかる。
織った後に竹ヒゴを抜き取った部分に、ふくみのある模様が生まれる。

この企画展では、各コーナーで手作業による実演が行われていてとても面白い展示だった。



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 ● 組紐製品と組紐台

展示ケースには組紐見本がずらりと並んでいるが、所蔵総数はこの分量をはるかに凌ぐという。
茶道具などの筥紐として使うシンプルな真田紐から、みえない細部にまで粋を凝らした帯締や、羽織紐まで実に多彩で、現在ではその技術が途絶え復元不可能なものもあるという。

自動組紐機では、糸群の可動箇所が相方に8の字に交叉していくと、本の栞紐のように平紐ができ。
それをさらに複雑に組み合わせる機構を採れば、より立体的な紐を組むことができるという。
右下は、シルクを用いて細い管状の紐をつくる機械で、現在この技術が医療技術分野で人工血管などを作る技術開発として注目されている。
シルクは人工素材と異なり身体との親和性が高く、その特性から体内において、自然とタンパク質などが付着して人体細胞の一部に同化していくという。

このコーナーの担当者による、靴ひものような単純な紐から、最先端の人工血管までと、組紐技術から話しに膨らみを持たせた解説に、見学者は興味津々に聞き入っていた。
若い世代に一見古くさく見えてしまう機械を通じ、工業技術の未来に目を向けさせる、オープンキャンパスらしくとてもよい内容だった。



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 ●  炭素繊維、磁心記憶メモリ、真空管メモリ

 炭素繊維;
炭素繊維とは、普通の繊維を高温で焼いて炭化させた繊維。
高温で熱処理するため、他の元素は消失し炭素のみの繊維となり、性質も大きく変わる。
一般的にCFRP(炭素繊維強化樹脂)の形で使用される。
軽量で強度、弾性率が高いという特長の他、摩擦、摩耗特性、寸法安定性、X線透過性等々に優れ、航空宇宙関連機器、車両、スポーツ、レジャー医療用機器、一般産業用途などに用いられる。


 織物職人の伝統芸で作られた磁心記憶メモリ;
磁心記憶メモリとは、小さなドーナツ状フェライトコアを磁化させることによって情報を記録する装置。フェライトコアには描き込みようの2本の撃動線と、読み込みようの1本のセンス線が通り、それぞれ電源を渡すことによってフェライトコアを磁化する。
製造は基本的に手作業で行われていた。
1953年に発明され、1960年代に最盛期を迎えたが、半導体のメモリの台頭によって1970年代初頭に衰退した。

 真空管メモリ;
真空管とは、ガラス管内部を真空にして電極を封入した管である。
電極に流れる電子流を調整することで、スイッチのように電流を流したり流さなかったりというON/OFFを制御出来る。
そのため、電流が流れるか流れないかで真空管1本あたり1bitを記録できる。
1940年代~1950年代の初期のコンピューターで使われたが、当時の真空管は消費電力が大きく、信頼性も低かった。


人工的な素材の化学繊維は、被服以外にも、その強度と加工により様々なジャンルで用いられている。
また織りの技術を利用して記憶メモリとして使われていた時代もあった。
最先端技術と、需要がなくなり途絶えてしまった技術、そんな技術史の変遷を比較できる点もこの館の素晴らしいところです。



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 ● 組紐の錘       鉄・木製     径35×42ミリ。
   羽織紐        絹製       幅10×170ミリ。
   製糸機の糸通し部品  白磁       径20×6ミリ。
   杼          木製       幅88×55×厚み25ミリ。


うちにあるガラクタの中にも、そのかたちに惹かれてか、今回みたようなものが若干ある。
その物自体がなんなのかまるで読めなかったのが、小さな釦のような白磁の部品。
小孔があるので繊維関連のものだとは聞いてはいたけれど、実際に製糸機のなかにそれが使われているのを発見したときは、妙に納得して結構嬉しかった記憶がある。

角形の杼は、確か銀糸用のものと聞き。
それには小さなガラス製の環が付き、バネで伸びるような仕組みとなっているけど、原理のほうはまるで想像できない。
滑りが良いように滑面には動物の骨のような素材が用いられている。
はて、この杼を用いる織機の実物に出会うことがあるだろうか、そんな機会が巡ってくることを密かに期待している。



今回もまた新たな発見に出会え面白い見学となりました! (*^_^*)





  1. 2017/06/20(火) 14:28:48|
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