うちのガラクタ

古びたモノが好きです。日常の捕って付けたようなモノ・コトの紹介です。

372 熊川宿






先日の三方の調査の帰り際、寄ってみたのが熊川宿です。



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 ● 熊川宿    福井県三方上中郡若狭町

熊川宿は、若狭より機内をつなぐ「鯖街道」 にある、昔ながらの町並みを残す宿場町。
そのエリアは、上ノ町(かみんちょ)、中ノ町(なかんちょ)、下ノ町(しもんちょ)と長く、街路の脇には水路である前川が勢いよく流れ、道幅は車が交れるほどの広さがある。
国の重伝建<重要伝統的建造物保存地域>選定地区であり、同時に若狭鯖街道として日本遺産認定されている。
宿の交流館に貼られたポスターは「第18回 熊川いっぷく時代村」なる催事のもの。
来月10月1日に開催で「ゆるキャラと山車をひこう」というイヴェントで、近在の奇っ怪なゆるキャラが勢揃いしたその写真に、ついついわけもなく見入ってしまう。
赤いベンガラ塗りと白い漆喰壁の対比、木造の美しい町家の細部はよくみると、卯建や虫籠窓、駒繋ぎや折り畳み式の縁台「がったり」などがみられ、この宿場町の伝統的な建築にすっかり魅せられる。
資料館でみた古い写真には山車を曳く祭礼のものがあり。
また近年のイヴェントでしょうか、ブガッティのオールドカーがこの宿に勢揃いしたスナップも置いてあり、さまざまな催事が催されているようだ。
国は違えど、熊川宿の美しい町並みにばっちりお洒落に決めたオールドカー、実に絵になる一枚だった。



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 ● 細部もいろいろな熊川宿。

重伝建指定区域では、ある基準をもとに町並みと建物を当時の様子に近く再現したり保存したりの政策上、実際にその地域で日々の生活を営む住民の人々にとってはなにかと制約も多く、かならずしも良いことばかりじゃないとおもう。
ただ、不謹慎にも観光気分で訪れる自分たちにとっては、宿場町が醸し出すちょっとしたディテールが結構面白かったりする。
かってはタバコ屋であったろう民家の出窓には、招き猫が飾られ出迎えていたり。
レトロな琺瑯看板が掛かった洋品店の店内を窓越しに覗いてみたら、商品が昭和まんまの様相だったりと、ある時代の物品が好きな自分としては、何気ない生活道具のなかに随分楽しませてくれるものがある。
しかし、平成に重伝建指定されたこの熊川宿も、すでに長きの年月を経て、人々の観光のありかたの意識や、建物自体の保存の面で、次なる第2のステップに直面しているのかもしれない。
交流館の休憩所には、保存建築の改築の経緯をパネル化し展示もされているが、このような解説にどれほどの観光客が目をむけることだろうか。
隣接した道の駅はかなりの賑わいをみせてはいたけれど、平日の熊川宿はほとんどの店が閉められており、いたって閑散としたたたずまいだった。
ドライブの休憩として利用する道の駅では、物産品などの購入も気楽にできるけど、隣りにあるとはいえ、さらに一歩足をのばし、この熊川宿の長い街道を歩き地区にお金を落とす人がどれだけいることだろうか。
観光バスなどのツアー客は、この道の駅の駐車場でバスを待機させ、せいぜい小一時間のタイトな宿場見学で済ませてしまうのではないだろうか。
熊川宿には「宿場館」(若狭街道資料館)、「旧逸見甚兵衛家住宅」などの少額料金ながら素晴らしい有料見学施設もあるけれど、どれほどの月利用がされているのだろうか。
日本の北から南まで、重伝建指定地区は数あるけれど、土地の活性化と観光事業との兼合いを長期にわたり維持していくのはとても困難で大変なことに感じる。
これまで自分も幾度か重伝建指定地区を訪ねはしたけれど、どの地区にも今後の活性化を図る面で、似たような問題が山積みされていたようにおもう。
・・・・・・・・・・・・と、そんなことをおもいつつ一団で進んでいたら、先を歩いていた先生がひょっこりと自宅から出てきた土地の人と、初めて会ったのにまるで旧知の仲ように立ち話をしながら歩いていく。
さすがに学校で民俗学を教えている先生だけあって、人受けするお得意の気さくさでもって、いつのまにやらその方を先導者としてバトンタッチして、あれやこれやと案内して貰うことになってしまった。
それにしても、なんだかあまりにも詳しすぎるその方の解説に、あきらかにただの町並みボランティアの方とは違う雰囲気を感じる、訊くとこの地区のまとめ役をなさってる方で、重伝建の会議にも幾度も列席されているという。
道理で! あたらしい指南役に導かれながら、さらに資料館へと向かうのだった。



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 ● 元役場の建物が麗しい「宿場館」(若狭鯖街道資料館)

昭和15年に建設された熊川村役場を、平成10年に歴史資料館としてオープン。
シックなたたずまいのその建築は、トスカーナ風の柱頭をもつ円柱や、中央に越屋根が付いた寄棟瓦葺。
内部を貫く大黒柱は、よく見ると八角に面取されたとても凝った代物、伊藤忠2代目社長を務めた熊川宿出身の伊藤竹之助がこの村役場の建設に貢献したこともあり、建築のそんな細部にも贅を凝らした作りになっている。
また資料館になった現在では、一族の顕彰展示もされている。
入口の扉には「日本遺産認定 海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 -御食国若狭と鯖街道-」のシールがばっちりと貼られている。
熊川宿の様子や、天秤棒で振り分けて荷運びしていた魚売りの写真などで、活気のあった当時の宿の様子が偲ばれる。
展示ケースには、ぷりぷりと肥えた鯖が三匹、竹籠に納まっていた。
貢ぎ物用の輸送籠なのでしょう、本体よりさらにベロ状に簡易的な蓋部分も編だして工夫している。
これとまったく同じ籠を以前から見てはいたが、簡易籠の類と知ってはいても何用なのか用途は知らなかったので、そうだったのかとつい嬉しくなった。
多摩川の献上用の鮎籠同様に、基本的に使い切りで使い回さない土産籠や捨籠などの簡易籠は、籠の文化の一端を支えているようでとても興味をそそられる。



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 ● 住民が仕掛けたこの水車は!?

街道脇を流れる細い水路とはいえ、この前川は流れも速い。
その豊富な水量とたたずまいで、平成の名水百選にも選ばれている。
家ごとに「かわと」と呼ばれる水利施設が設けられている。
街路を歩いていたら、ガラクタのなかにこの水車(左上、50年前のもの)を見つけ、しめしめ「やった」と思っていたら、後でそれと同じ真新しい水車を担いで来る人がいる。
以前水車の展示をした際に、こんなものもあると写真を見ながらレプリカを作ったことがあり懐かしい。
しかしながら実物と、その使用例を見るのは、今回が初めて。
その展覧会を企画された先生のほうは、すでに舞い上がっておられ「さて、これは何でしょう」と学生に問い掛けている。
答えは、中に里芋などを入れて泥など落とす洗いもの水車。
容器の入口はどこになるのか。側面の円盤部分にはその箇所が見られないから、羽付きの側の一箇所が蝶番で開くのかもしれない。
羽の全体に金属ベルトを周しているのも、そのための固定の工夫か?
側は、竹材の皮付き部分が外を向くようにしてあり、それに木製の6枚羽が付く。
軸にあたる芯棒は竹材で、その棒の先端を水路の石積の小穴に差し込み、棒の元は「かわと」の段差の端の窪みに押し入れ、小石(右下、オレンジの矢印部分)で固定するというちょっとした小技に感心する。
芯材としての竹の弾力もよく活かされて、ぐわんぐわんとしたたわみをみせながらも水車が勢いよく高速回転しだす。
これだけ勢いのある流れだからこそ6枚羽で可能で、流れがなければさらに羽数を増さなければならないという。
先のブログ №369 便利生活への欲望 にも書いた、手回し洗濯機のなかにもこの水車と似たようなドラム型タイプのものがあったけど、洗濯機の場合は洗濯水などの洗液供給が洗濯物にとって必要となるので、これとまったく同じというわけにはいかない。
そんなことを考えつつ悠長に水車をながめていたのだけれ。
かくいう先生のほうは、這い蹲る体勢でもって一分の隙も見逃さないように、回る水車にカメラを構え連写の嵐を送って記録しておられた、 流石だ!



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 ● 前川利用 その2

前川の豊かな流れの利用は、昔より洗い水車によって実践されていたが、
水車効果か、こんどはつい回るものモードになってしまう。
この写真は、人目のつかない宿場館裏手の流れを利用した小水力発電の様子。
水の中で流れを受けて、スクリュー状の羽が高速回転している。
確かに住人の方に先導されなければ、漠然と見えてはいてもなかなか気付かないシステムだ。
かんたん設置・維持管理を目標に開発された優れたピコ分散電源システムで、静寂性に優れ、高耐久というもの。
発電機とコントロールBOXで昼間蓄電を行い、夜間のみの点灯。
LEDが開発された現在だからこそ省エネルギーでも可能となったシステムで、5~10Wの夜間照明が常時まかなえる優れもの。
宿場館では、2基のLED照明が活躍中で、道の駅、西口駐車場にも利用されている。



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 ● 「宿場館」での民具展示の様子。

200円の入場を払い入館する。
目の覚める鮮やかな黄色のポロシャツにバンダナ姿の係りのお婆あちゃんが、懇切丁寧に資料の解説をして下さる。
小さな館ながらも、よくまとめられた展示コーナーで。
そんな解説をよそに、「ははぁ~!なるほど~!」と碌にお話しも聞かずに、つい先走って物に目が入ってしまっている自分がいていけない。
展示されている橇など、むかしの古い写真に照らし合わせながら、かって使われた民具の様子を知ることができる点もよい。



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 ● 「熊川葛」

民具はいずれも結構覚えのあるものばかりだと思いきや、あららこんな珍しい道具も展示されている。
葛(くず) といえばやはり吉野葛しか思い浮かべなかったものの、ここ熊川は葛の生産地としても有名だったことを知る。
ガラスケースには、紙箱に収められた100年前に作られた葛(上)が展示してあった。
なんだかモースがアメリカに持ち帰った、明治時代の日本の食材に出会ったようで楽しいかぎりだ。
元禄年間の記録にはすでに「葛粉」として「熊川村並ニ河内村ヨリ出ス、多ク京師(みやこ)ニ売ル」とあり、厳冬の最中に、熊川の美しく豊かな水を用いて精製されていたようだ。
しかし100㎏の葛根より精製されるのは、本当に僅かの分量という具合らしく。
葛づくりは洗っては上澄みを捨て晒す、根気のいる作業の連続のようだ。
展示されていた民具はいずれも簡素なものばかりで、葛根叩解用の木槌(葛バイ)、大小の桶や諸蓋、ならし鏝、金篦、搾り網などの道具が並んでいた。

野山にはびこり、手入れのされない荒れ地のイメージの象徴であるようなクズながらも、マメ科特有のかたちをした紫色の花はとても美しい。
近年では国内にすっかり帰化した外来植物の被害で大変なことになっているが、クズはその逆輸出的な存在らしく、日本よりすっかりハリウッド(の野山)に進出して根付き、すでに当地でも大問題を引き起こしているという話しを聞いたことがある。
ゴボウ同様にたんなる草の根ということではなく、クズも貴重な食品(葛粉)のひとつとして認識されてさえいれば、アメリカ人にとっても一役勝ったハリウッド・スターになっていたかも知れない。
現在熊川では、原料の葛根は既に地元産では賄いきれず、余所より入荷となっているが、多分その精製プロセス自体は、依然として変わっていないのではないかと思う。
つい嬉しくなって、ここでも珍しい民具ということで先生と共にバシャバシャ写真を撮っていたら、 「あれっ、写真禁止のマークがあるよ!」と誰かの一言。
「ははは・・・・・・・、またやってしまった」
はなはだしい勘違いの顛末ながらも、無事事後承諾を得て、折角ですので製造工程パネルを並べてみます。



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● 葛粉製造工程

<左上より>
山掘り、葛根、葛打ち、
葛殻・葛洗い・葛絞り、かね、振こし、
よね、葛さらし、寒晒し、
玉干し、



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 ● 職人絵図にみる「葛作り」の様子。

和菓子や日本料理に、もっちりとした独特のとろみをつけ、食材として欠かすことのできない、とても上品な澱粉質をもつ葛粉は、このような根気強い工程によって生まれてくる。
大学の先輩で、現在ではほとんど製造されていない従来ながらの方法でもって、蕨(わらび)粉製造のプロジェクトを立ち上げられた方がおられるが、お話しを伺うだけでも大変な労力の積み重ねのようで、ついついこの葛粉作りにもどこか同じような苦労が偲ばれる。
むかしのパネルの写真には、どうやら子供までもが動員されて家人の手伝いをしている様子が写っている。
泥のように汚れた液体から純白な澱粉として幾度も晒していく、大寒の中で行う水仕事は、きっと忍耐の連続で想像を絶するほど大変な労働だったにちがいない。




時間が許せばもっと滞在したかった熊川宿、それでも皆と一緒に複数の目を通じて見えてくる世界が新鮮で面白く、とても勉強になりました。 (~o~) 



  1. 2017/09/06(水) 20:57:07|
  2. 雑 閑
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371 お手足堂 再訪





「身のあだも ほどけてのりの 三方山 たが手でゑりし 石の御姿」

8月の最終週は、春に引きつづき三方のお手足堂の資料調査に行ってきました。

前回のものは**ブログ№337 お手足に記載しています。


今回は、先生が引率した実習生も一緒に、大所帯の面々で整備作業に取り込むことになりました。
あれからほぼ半年、今回はまだ厳しい残暑が残るなか、皆との共同作業です。



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 ● 「三方石観世音」    福井県三方上中郡若狭町三方

本尊の秘仏は33年毎に御開帳されるという弘法大師一夜の御作と伝えられる、右手首より先がない片手姿の観世音菩薩<片手観音>。
その御姿は、この本堂の背後に付された大岩(不動岩)に彫られている。
片手観音の霊力にあやかり、古来より手足の不自由な方や諸病にご利益があると伝えられ、遠方からも多くの方が参拝される。
本堂の御宝前に供えられた手足のつくりものを借り受け持ち帰り、「南無大慈悲観世音菩薩」と唱えながらさすることで病が快癒すると云われる。
無事病気が快癒されたあかつきには「願はらし」「願ばらい」として、御手足堂に各人新たな一つを加え奉納するという倍返しの習慣が採られている。
御手足堂は、そのときに返納された手型足型が堆く積み上げられており、その量の多さは観音様の霊力の偉大さを感じさせ圧巻ものだ。
本堂の天井を埋める奉納提灯は、よくみると芸能人や日舞の宗家など各界の著名人の名前も確認でき、その信仰の篤さを物語る。
夜明けを告げる鶏の一鳴により、弘法大師が観音像の右手先を仕上げきれぬまま、未完成でこの場を離れたという。
前庭に続く階段にある鶏の石像にも、お地蔵さんと同じように赤い前掛けが被せられて篤く祀られている。
この鶏の像が乗った大石は妙法石(鶏鳴石)とよばれ、この片手観音譚にあやかる不思議な力が籠もると云われる。



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 ● 「御手足堂」

堂に返納された手足型は、近年の水害でその多くを流失して、従来の半分ほどの量になったといわれるが。
それでも納められた手足型は人丈を超える凄い数の量となっている。
堂の改築後、改らたに納め直された手足型は新旧が入り交じり、その山を掘り進むかたちで手足型の採集作業が繰り返される。
厳しい残暑のなか埃にまみれ、 まさにここ掘れわんわん状態の重作業。
今回自分は汚れ仕事とは一切無縁なデータリング作業が中心だったので、穴掘りさん(採掘担当者の方)にはなんともかたじけない限りです。
この場をかりて恐縮ながらご苦労様でした。
選択し採集された手足型は、記録の前に一度クリーニング工程にまわされる。
ブルーシートに広げられ、湿気を取るためしばし乾燥させる。
つねに大所帯による物量作戦が展開される。
シートごと移動させるシーンでは、なんだか漁師の網引きのようにも見えてしまう。



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 ● 残暑のなか展開される整理作業。

集められた手足型は、その特長毎に形体分類をし記録する。
手足型に交じり乳出し祈願だろうか、乳房の奉納物も結構みられる。
返納された手足型は、実にリアルなものから質朴なものまで様々なものがみられる。
快癒の御礼(願はらし)で返納されたものだから、その造形にはおどろおどろしさは一切感じさせないが、これが善意の奉納物でなかった場合は余りにも怖すぎる。
それにしても、手足のかたちを借りた信仰の、人々のその祈りの篤さには胸を打たれるかぎりだ。
昔に較べ格段に医療技術が格段に進歩した現代にあっても、三方石観世音の参詣者は後をたたない。



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 ● 休息のひととき

事務所の世話役の方が、折にふれお茶請けの飴や煎餅を差し入れして下さる。
その素朴な味の甘味に、蓄積した疲労から一気に開放される。
お昼のお弁当も机の上のスペースをわずかに開けて、お手足とにらめっこ。
弁当の箸包みに印刷された手のマークなんかも、すっかりお手足モードとなってしまい、しげしげと見入ってしまう。
なに不自由なく普通に歩いたり動けることは、普段の日常生活ではほとんど意識しないままだけど、そんなちょっとしたことについ感謝したい気持ちとなる。



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 ● 手型の製作、御朱印書きなど。

かっては各自が自分で作り納めた手足型だが、現代では小絵馬のように既製品(明治期より一定のタイプが確認できる)がつくられ宝前に供えられている。
月に2回、近在の寺の僧侶が訪ね、作られたこれらの手足型を祈念する。
手足型の作業工程では丸鋸や糸鋸、サンダーなどを使い機械化はされているとはいえ、ひとつひとつが事務所の世話役の方々によって、手作りで丁寧に仕上げられている。
手の指の切れ目を入れる丸鋸は、その長さが異なるように4枚の刃のそれぞれを微妙に位置を調整して配列している。
一度差し込めば、この工程を難なく仕上がるように工夫した、ちょっとした治具に感心する。
三方石観世音とその施設の管理は、町の在住者に順番に巡ってくる、年毎の世話役の数名の方々によってすべてが執われる。
朝の8時から夕刻の5時まで、1年365日休み知らずの世話役の方は、三方石観音を訪れる参詣者が快く祈願出来るように、その背後には計り知れない苦労と労力がある。



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 ● 朝の自由時間の散策。

今回は実習ということで先生が学生を引率しているので、前回の調査のときのような宿に持ち帰りの夜なべ仕事が一切なく、実にゆったりとした時間が持ててちょっと嬉しい。
三方五湖近辺は日本でも有数な低湿地帯ということもあり、土器ばかりじゃなく、木製品や編組品、骨器や堅果類など縄文初期の貴重な遺物も奇跡的に残され、鳥浜貝塚など考古学の世界ではつとに有名だが。
若狭地方はまた民俗の盛んな土地柄で、集落や民家のつくりを見ていて実に面白い。
朝食前の散策の一時や、仕事を終えてから宿まで歩いていく道中にも折に触れた発見がある。
前回の時と同様のコースを歩いてみても、春と夏とでみせる植生などの自然の変化は著しく、ここが同じ場所とは思えないようなところもある。
この季節の三方湖は湖面は、ぎっしりと水草がはびこり覆われていたが、春の湖からは想像もつかない有様で驚かされた。
また信仰が生まれる場所には、当然ながら人々の日々の暮らしは無関係ではなく、そんな一辺から調査とは別に学べることも多い。
ある民家の生垣の下に供えられた小さな供え物、なんだろう施餓鬼だろうか?
目を凝らして歩いてみれば、もっといろいろなものが見えてきそうだ。



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 ● 道の駅の年縞展示。

宿の隣りの道の駅に小さな展示があると聞いて見に行く。
年縞(ねんこう)とは初めて聞く言葉だけど、どうやら湖底に沈殿した泥(プランクトンの死骸、黄砂や鉄分)などの堆積物がみせる年輪層らしく、まるで顕微鏡で覗くスライドカバーに納めるサンプルのように、非常に薄くスライスされた縞々の年縞の実物が展示されている。
一見「なんだ、ただのシマシマじゃん」と、しょぼけた展示とあなどるなかれ。
この水月湖の年縞である、湖底のこの縞模様には歴史の謎を解く鍵が秘められている。
季節毎に異なる物が堆積することにより形成された、明暗1対の縞が1年に相当し、その縞には過去の気候変動や自然災害の履歴を知る重要な手がかりが記録されているという。
年縞を解析することで、当時の自然環境(気温、水温、植生など)や自然災害(地震、津波、洪水、火山活動など)に関する精度の高いデーターが得られるという。
係りの方が、ガラスに挟んだ年縞の実物サンプルを見せて頂き、いろいろ詳細に解説して下さった。
水月湖の地形と独特な周辺環境が、世界的にも類例の非常に少ない年縞を形成させる好条件<流れ込む大きな河川のない地形、山々に囲まれた地形、生物のいない湖底、埋まらない湖>を生みだし、その堆積した年縞は7万年(ボーリングにより約73mの年縞を採取)に亘るという、水月湖はまさに奇跡の湖。
また年縞は、放射性炭素年代測定値の較正も出来るほど、より正確な年代測定が可能という。
水月湖年縞は、考古学や地質学における「世界標準のものさし」として年代測定の精度を、従来より飛躍的に高めた。
現在、若狭三方縄文館(そちらにも水月湖の年縞展示がある)の横に水月湖年縞研究展示施設を建設中で、来年度(2018年)オープンする。
この道の駅の年縞展示では、パネル展示のほかにもNHKで放映された年縞のVTR(9分)も常時上映されており、年縞の知識と魅力に触れるとても解りやすい展示となっている。



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 ● 仏像の真似っこ

宿泊していた福井県立若狭青年の家では、偶然ながらも本校の別の団体と鉢合わせになった。
古美術研修でバスを一台チャーターした大団体で、夕食後の食堂で仏像のアトラクションをやるというので見にいってみたら、この写真のように凄いことになっていた。
かなりおバカな仏像ごっこと思いきや、種本をもとに数人一組となり、千手観音や降三世明王なを写し。
その角度や指による印のかたちなど担当教員の適切な指導のもと、当人たちも真剣になりつつも遊び心満載で、結構楽しませてもらった。
持物としては何故か、酒瓶に箒やモップなどで真似て装い、まさかこんなところで箒やモップが使われているとはお掃除おばちゃんも知る由もなし。
調査の延長上という点もあってか、こんなおバカなお遊びにも、トホホ、ついつい手足に目がいって見入ってしまう自分がいて情けない。



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 ● 青少年の家、青年の基準値とは・・・・・・・・!?

清く正しくのイメージの青年の家。
料金体系も年齢により数段階に分かれているようで、宿泊費は26歳以上は更に値段が加算される。
つまり25歳までが”青年”ということらしい。
なんと小学生は一泊280円という安さです。

朝の早くから青パン姿でラジオ体操をこなす小学生の団体に較べ、子ども達が寝静まったあとの夜の大学生(就寝は10時じゃなかったっけ!!)は、なんと乱れているのだろうか。
青年の家で皆と一緒に食事の歌を唱わないばかりか、夜の宴会!?での歌は、はた迷惑な限りだと思うのですが・・・・・・・・・・。

 「福井に乾杯」 調査の最終日、宿で小さくなって喉を潤す。




仕事に、そして遊びも充実した三方での5日間でした!  (^_^)v  




  1. 2017/09/04(月) 08:23:07|
  2. 信仰
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370 ローカル線でGO!






しばらく帰省していました、久しぶりのブログです。
今回の北海道は札幌IN。

前回、石狩太美の姉宅より車で実家に帰省した際、車窓より度々見えていたJRの学園都市線。
お隣の石狩当別から次の医療大学前までは電化されているものの、その先はすっかり錆びれきってしまっていて、なんとも鄙びたたたずまい。
年ごとに利用者も減り、最終駅の新十津川までのコースは、近々廃線になるのではという話しでした。

札幌から実家のある旭川までは、JRよりは断然本数の多い高速バスを利用したほうが、料金も時間も節約できて便利なのですが。
急ぐ旅でもなし、そんな廃線間際のローカル線を使って、時間を気にせずちんたらと帰るのも暇つぶしに良いかもと、先月偶然乗った九州のローカル線をおもいだしチャレンジしてみることに。

JR新十津川駅よりJR滝川駅までは、地図で見ると石狩川に掛かった橋を渡れば数キロといった距離ですし、その間はバスでアクセスすれば一切問題なし。
折角だから、滝川-旭川間(函館本線)も鈍行列車で帰ってみよう。

ところで新十津川の”新”ですが、札幌近辺の新広島市などのように、北海道の地名では北海道開拓で集団入植した際の元の地域の付いた名前が残された例がみられます。
新十津川は、母村である奈良県の十津川村の大水害<明治22年、日本の現代史で有名な十津川崩れ>により、集団入植された経緯より付けられた地名。
町には「開拓記念館」なる博物館もあり、その関連の展示も充実しているようです。
高校生のとき、滝川に住んでいた叔母を訪ねたさいに、新十津川近辺を車で通った以来で自ずと期待感が湧いてきます。

それで、YAHOO路線案内で”石狩太美-旭川”を新十津川経由で打ち込んでみたところ、一度札幌に戻ったり、バスに乗り換えたり、果ては石狩太美から石狩当別間8キロを徒歩で102分歩くなどと、ともかくとんでもない時間と料金のトンチンカンな結果が現れました。

昨年2016年のダイヤ改正にともない、どうやら”石狩当別-新十津川”を結ぶ列車は、これまで一日3本あったものが1本のみとなった模様。
その一日1本の減本の結果が、 「日本一早い最終列車が出発する駅」 (現時点)となり、ある種のフアンには、にわかに盛り上りをみせている様子です。



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 ● 「石狩太美」より「石狩当別」まではわずかに一駅。

当然ながら悩むまでもなく、さすがに石狩太美より当別まで畑の道を102分歩かなくても、新十津川行きに上手く接続する電車はありました(笑)



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 ● 「石狩当別で」新十津川行きの列車に乗り換える。

ここからはディーゼル一両編成の鈍行列車。(次の「北海道医療大学」駅までは電化されている)
夏休みのこの季節、北海道医療大学を過ぎてしまうと、乗客の半数以上は鉄ちゃんなどの観光客。
さすがに車社会の現代では、この列車ではアクセスがあまりに悪すぎる。



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 ● 「北海道医療大学」の次は、列車車両をそのまま駅として設置した「石狩金沢」

北海道医療大学を過ぎ、一気に鄙びた風景へと豹変するローカル線。
”乗鉄”もいまの時代、昔のようにリュックのなかから電話帳のように分厚いJR全国時刻表は出てこなく、お手軽なスマホのみを使用。
それでも、おたくの本道というかじわじわと滲み出ている雰囲気はしっかりと固持しているのを、素人の自分にも感じさせる。
普段縁のない、ちんたらとした列車の旅と、人間考察で旅情も高まる。



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 ● 「石狩金沢」駅の様子 2015年撮影。

3年前に太美の姉宅へ寄ったとき、車で石狩金沢の温泉へ行ってみた。
お昼のこの時間、温泉はまだ開湯しておらず、折角だからと石狩金沢の駅に連れて行ってくれた。
この写真はそのときのもの。
確かにこの時点の時刻表には、新十津川行は一日3本しっかり確認できる。
駅に置いてあった感想ノートには、様々な寄せ書きがある。
列車でふらりと下りるには、あまりにリスクが高すぎる無人駅ということもあって、自分のように温泉ついでに車で立ち寄ってみた書込もみられる。



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 ● 石狩金沢の「開拓ふくろふ乃湯」 2015年撮影。

石狩金沢駅にほど近くにあるのが、この「開拓ふくろふ乃湯」。
湯温25度を人肌に加温した、体にしみいるように柔らかな薄い茶色の源泉掛け流し、美肌効果抜群の炭酸水素温泉。
2009年に開湯したが、諸事情で一時閉鎖されていたところをこの春再湯したという新聞記事が置いてあった。
露天風呂は、滝や池のある庭園を眺めながらゆっくりと湯に浸かることができる。
自然のなかで実にこじんまりと経営されているこの温泉のツボにはまった、愛湯家も多いという。
窓際には温泉の名称を象徴するごとく、イチイの木彫りのフクロウがぽつんと置いてあった。



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 ● 「石狩月形」

石狩当別-新十津川間の、中間のポイント駅が、最寄りに高校もあるというこの石狩月形駅。
上り下り線の待ち合わせのため、列車もしばらく停車する。
ホームにみられる木製プレートが、なかなかいい持ち味を醸しだしていた。
それにしても地元の高校生、登校時は列車で通学出来るのだろうけど、下校時の足はどうしているのだろうか、疑問だ!?



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 ● 合間に小さな駅のみられる森や林を脱け、蕎麦、小豆、馬鈴薯、玉蜀黍などが栽培された農地や牧草地へと景色が移っていく。



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 ● やっと「新十津川」に到着!!

「歓迎 ようこそ新十津川へ」駅に掲げられたなんとも年季の入った看板。
列車で終着した観光客は、すかさずホームで記念撮影。
”撮鉄”一行は、さすがに機材の装備も完璧です。
駅には地元の親子連れが歓迎のお出迎え、到着記念の手製の絵葉書をプレゼントしてくれます。
駅の時刻表に確認できるのは、9時40分発の一本のみ。
始発終発の区別もなく、確かにいまの時代こんなに閑散とした時刻表は見たことがない。
ありがとう新十津川、お蔭でたのしい旅となりました!



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 ● 観光案内所なるものを探しに町役場へ。

「駅には何もないよ」という姉の言葉どおり、駅前に建つのは病院のみ、鉄道駅は町の主要道路から離れていて何もない。
まずは新十津川-滝川間のバスの時間を確認するべく、主要道路へと移動する。
バスは一時間に1本といったところ。
ついでに観光地図(!?)を貰いに役場へ寄ってみる。
博物館までのルートを確認していたら、『JR札沼線 新十津川駅 到着証明書』<日本一早い最終列車が出発する駅に到着したことを証明致します>のハガキを頂いた。
どうやら役場の窓口に来たことを、証明書受託目的と勘違いされたようだけど、そこは素直に貰っておく。
それにしても日本の市町村、どんな辺鄙な行政にもゆるキャラは存在するのだなぁ~。
新十津川町には「十津川村 郷士くん」「とつかわ こめぞー」の2体がお出迎え。
その手の趣味は・・・・・・・・・”ない”と思いつつ、依然旅モード、折角だからそれでもしっかり写真に納めているもう一人の自分がいる。

博物館は役場から徒歩10分ほどの場所にある。
その名も「新十津川町開拓記念館」、その建物は札幌野幌森林公園にある「北海道開拓記念館」(現;北海道博物館)とよく似ている。
開基90周年の記念事業として新設されたこの博物館は、担当学芸員が北海道開拓記念館とも関わりがあり、そのコンセプトを元に造られた館という。

受付の方と話していると、ご親切に収蔵庫内を見学させていただいた。
大型の農具や民具なども、本来は館内駐車場スペースを活用して、正確な系統分類されていおり、実に丁寧な作業と充実した内容だ。
特に目を惹かれたのが、近郊で採掘された砂金関連の道具で、なかにはアメリカから輸入された特大な砂金分類機械まである。
つい嬉しくなり、本番の常設展示そっちのけで、こちらを先にじっくり見入ってしまう。
大方の道具は、どのようなものか大体瞬時に想像がつくが、なかにはまるで読めない道具もある。
先に答えを知らず、あとで展示を観てその答えが確認できたりといった変わった見方だったけど、それはそれで面白い。

常設展示では、奈良県の母村である十津川村と、この新十津川への移住と開拓の経緯にスポットを照てた内容がよくまとめられており、とても充実している。
これは北海道各地の開拓史にはみられない、この町独自の災害による集団移住の歴史に負うところが大きい。

気付くといつもの癖で資料見学に時間を費やしすぎてしまい、バスの時間を見逃してしまった。
1時間ほどのバスの待ち時間は余りに長すぎて、バスで8分歩いても橋を渡れば急ぐだよということで、滝川駅まで急ぎ足で歩いてみる。



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 ● 新十津川より滝川へ歩く

列車の時間を考えると、ついつい早足で急ぐことに。
途中でぽつぽつ雨も降り出してきて、石狩川をまたぐ橋(451号線の南側の橋、右上)の距離のなんとも長いことか。
橋を渡っていると上空を低くグライダーが滑走していく、滝川よりの川辺には「滝川航空公園」があり、そこには「滝川スカイミュージアム」(左下)があるらしい。
橋を渡り終えてから滝川駅(右下)までがやたらに長く、有に1時間以上かかってしまった。
ローカルタイムの読みが甘すぎて、滝川駅次発の鈍行列車の時刻までさらに2時間の時間潰しとなった。
トホホ、まあ、これもあてのない旅の醍醐味か。
駅前のデパートは、不況の煽りかレストランも閉鎖されており、ほとんど物抜けの殻。
随一デパートのワンフロアーを占めていたのが、100均のテナント。
年金高齢者社会、財布の支出を抑えた暮らしぶりは地方都市にあっても同様に、そこだけ繁昌しているのがなんとも虚しい。
雨降りのデパート内で時間潰しに100均製品を手に取り、使える物使えない物と考察していく。
100円といったこの値段で製造し供給される製品の陰には、どんな社会構造の絡繰りが存在するのか。
その安さに目を奪われ、安いが便利で良いものと錯覚してしまう、使い捨ての浪費社会が浮かび上がる。
地元の中高生に交じっての駅の待合室、文庫本片手に水筒に詰めておいた飲み残しのワインをお茶を飲むようにしおらしく飲んで時間をやり過ごす。



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 ● JR滝川駅

鈍行を待ったため、滝川から旭川までは、乗車時間よりも駅での待合い時間がよほど長かった。
札幌からの高速バスならば、ここでの待合い時間だけで目的地まで充分に到着してしまう時間だ。
でもねぇ、”鈍行”という言葉自体がほとんど死語化している現在、やはり時間貧乏となってしまっている時代には幾分貴重な機会といえる。
さらに一本列車を遅らせて、また2時間待つ手はあったけど、やはりこの雨模様には抗えない。
市内の博物館などを見学するには微妙に足りない時間で、やはりパス。



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 ● 「滝川-旭川」(函館本線)

田舎への帰省でも列車はほとんど使っていない。
電化が進んでいなかった地元では、列車の時刻を「汽車の時間」と当たり前によんでいた。
旭川近辺に近づくと、子供時代に遊んでいた、石狩川沿いにあったサイクリングロードでも見かけた「伊納」、「近文」などのぽつんとした駅が目につきなんとも懐かしい。
しかも駅のホームにはその時代のまま取り残されてしまったような待合室が見られ、なんともローカル駅の風情を高めている。

鉄ちゃんではないけれど、幾分その心境に触れた気がする。
短い路線をすっかり長旅気分で移動でき、車窓を楽しみながらちょっぴりとした飲酒と、しっかり読書できて、やはりバスの利用では味合えない鉄路の移動ができ、結構ポイントの高い一日となりました。




急がず焦らずの鈍行列車の旅は、「青春18切符」使用以来かも、まずはちょっとした癒しの一時を有り難う!! (^_^)v 





  1. 2017/08/27(日) 12:06:08|
  2. 雑 閑
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369 便利生活への欲望





「必要は発明の母」



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 ● 『 昭和珍道具図鑑 -便利生活への欲望- 』    魚柄仁之助 青弓社 2017

図書館の新着本コーナーに見つけたこの本、タイトルにあるが如くに便利とは謳っているものの、
いまではすっかり忘れ去られたある時代の便利(!?)な珍道具、表紙の珍気な手回し洗濯機の広告イラストにみせられて、借りてみることに。



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 ●  中身はこんな感じ・・・・・・・・・・・・・・。

「便利そうで便利でなかったモノたち」も多数紹介されており、骨董市で珍道具に出くわすのに似た楽しみを感じさせる。

<左上より>
空火鉢冷蔵庫(昭和25年)、
食料品真空保存器(昭和10年)、
電球使用の保温器(昭和21年)、
エンジン付きローラースケート(昭和34年)、
プロペラ・ローラー(昭和24年)、
木登り自転車(昭和3年)、
インドで開発されたサンクッカー(昭和29年)、
電動ウロコとり(昭和35年)、
カセットテープ巻き取り器(昭和55年)、
太陽熱料理器(昭和34年)、
文化櫃(大正15年)、
投げ込み型湯沸かし器(昭和6年)、
湯沸かし器(昭和11年)、



これはちょっとなぁ~と思うものからある程度頷けるものまで珍道具もいろいろだ。

インドのサンクッカーとまったく同じものが、チベットの茶店の湯沸かしで使われていたのを見たことがある。
火力調整が必要な調理ではなく、ヤカンの湯を沸かす程度のことならば、森林資源の少ないチベット高原では、薪やヤクの糞燃料を一切必要とせず湯が沸かせ、とても利便性のある道具と感心した覚えがある。

割烹着姿の主婦が手にする投げ込み型湯沸かし器を極小にしたサイズのボイリングコイルは、旅先ではカップの水を数分で沸かせられ、とても重宝していた。
海外旅行では必須のアイテムのひとつだったが、日本では電圧の関係でまるで湯を沸かせないのが難点だった。
この投げ込み型湯沸かし器で、風呂の湯なんかを沸かすにはどれほどの時間がかかるのだろうか、瞬間湯沸かし器や給湯器などがすっかり定着した今のくらしでは、やはり出番のない珍道具なのだと思う。

右下の湯沸かし器と同じ原理の湯沸かしを、むかし祖父の家で薪や石炭ストーヴを使っていた頃に使っていた。
L字型の煙突の水平部分の筒を若干長めに湯沸かし器に引き込んだ、大型の銅壺で、上部に蓋がつき柄杓でもって給水する式のもの。
冬場の北国では、家人分の湯湯婆のお湯を大量に沸かすことができ、とても便利な代物だった。

防腐飯容器である文化櫃は、容器に寿司簀のような簾をただ乗せただけの道具。
夏の飯櫃にのせる簀蓋(竹編みの蓋)や飯籠など、風通しを良くすることで夏場の食品の腐敗をできるだけ防ぐ工夫は、電気冷蔵庫が普及する以前はくらしの中では、あたりまえの知恵であったし、いまでも食品ネット(蠅帳)などは現役で使われていたりする。

戦前戦後から高度経済成長期頃までの道具を主軸にした本書にあって、随一新しい製品が著者所蔵(当時新品を購入したもの)のカセットテープ高速巻き取り器
複数のギアを仕組んだだけのどーっていうことはない商品ながらも、レコードの様に簡易に曲出し出来るのとは異なり、カセットテープではいちいち、早送りしたり巻き戻したりの作業が必要でこのような道具の需要もあったらしい。
90分テープが数十秒で巻き取れた優れものというが。
後にダブルカセットが登場し、二つのテープを同時に回せるラジカセが普及して、この手の問題は一気に消滅する。
レコードの音盤が醸し出すレトロで情緒ある音質を好むフアンを持つのとは異なり、カセットテープの場合は、ただ音質が悪過ぎるだけで、いまの時代にとってビデオテープなどと等しく、完全に死物メディアなのかもしれない。
知人が高校の語学の授業でカセットテープを持ち込んで、お爺ちゃんみたいと生徒に笑われたと嘆いていた。
自分の場合は、著者のような巻き取り器を購入するまでもなく、カセットテープの穴に鉛筆(この六角形のかたちがぴったりフィット)を突っ込み、楽器のラトルの要領で手のスナップを効かせ巻き取っていた。
時々折り合いが悪く、中のテープが腸のようにはみ出てしまい、惨事となった苦い経験もあった。
ちなみに、この嫌な記憶が残るカセットテープの茶色のテープ部分ながら、「凧のうなりにはこれが一番よ」と、日本凧の会の会員のかたが見せてくれた凧のうなりの弓には、このテープがぴーんと張られていて、思わぬところでカセットテープが活躍しているのだった。



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 ● 靴下を繕う道具とあれこれ。

 左; 靴下つぎ器広告(昭和12年)、
むかし西洋アンティークの骨董屋「アーバンハウス」がまだ荻窪にあった頃、店主の語る蘊蓄話しで、線路のイヌ釘や、英国人と日本人の傘に対する概念の違いなどと共に教えていただいたものが、この靴下継ぎの当て具だった。
赤に白い丸プチ模様(毒キノコのベニテングダケの様)で何だかディズニーの白雪姫に登場する森の小人の世界を思わせるような可愛らしさで、さすがに答えを訊くまでは、まるで想像できない代物だったけど。
一度知ってしまえば、このキノコ型の靴下の継ぎ当て具も、アンティーク・フェアーなどで結構見かける道具なのだった。
この継ぎ当て具のポイントは、踵部分に沿ったその形状と、針の返しをスムーズにさせるその表面の滑らかな加工とにあるらしく、確かに電球をその代用品として使用した世代の年配の御婦人も多かったと聞いたことがあるけど、本書でも著者はその点に触れていて、やはり電球のもつ曲線では、この当て具ほどには靴下にしっくりと馴染まないと書かれている。
用は、もの自体が駄目になると、現在のように新しいものに買い換えるのではなく、繕い直して最後の最後まで大切に使いきるという、そういう時代の生活があり、「もったいない」という概念も、現代用語としていま自分たちが馴染んでいるものとはまた少し違ったニュアンスを含んでいると感じさせられた。
一見シンプルな道具ながらも、道具としての完成度はこの形状に集約されていたのだなぁと、まったくもってあなどれないものなのだった。

 右上; 北京の靴下つぎ器(昭和17年)、こちらはキノコ型継ぎ当て具の中国版。
靴底の形をした一分五厘ほどの薄板に爪先と踵が付いているもの。
広告文には、「北京の人たちは、これを使って靴下の新しいうちに、一番いたみやすい爪先の上下と踵に、寫眞のやうに表から布をあてゝしまひます。それで生活學校の生徒は一年に二足あれば少しも困らないのですごせるといつてゐます。小さな子供たちもどんなに家が貧しくても靴下だけは決して穴のあいたものをはいてゐません。支那の人は、終日靴をぬがないので、白や水色や、時には花模様などの好みの布を丁度かざりのようにきれいにあてゝいます。」とある。

 右中; ハンドルーム<靴下の繕ひ器>(大正11年)、
何気に、見過ごしていたこの広告、よく画を見てみると、掌大のこれとまったく同じものが骨董市で売られていたのを思い出した。
木の板に編み機のような金属製の細鉤が多数付き、両端にバネが回されており、店主に訊くも、「編み機のような裁縫具かなぁ!?」と、どのように使うのかまるで要領を得ず、ちんぷんかんぷんの不明な道具だった。
どうやら、衣類の破れた部分をこのハンドルームに乗せ、その上に繕い用のあて布を乗せて動かないように固定する器具らしい。
「廃物同様の破れ靴下も手輕に體裁良よくつくろへる」これを用いると極めて手際よく出来るとある。
刺繍の張り枠のように布地をぴんと張り偏りをなくすための器具だけど、これもさほど勝手のよい道具ではなかったのではと、つい想像してしまう。

 右下; レンケツ靴下の広告(昭和8年)、
傷んだところだけを替えられる画期的なセパレーツ靴下。
「傷んでいない箇所」は残しておく方法がこのレンケツ靴下の売りらしい。

解説書なしでは単純すぎてまるで何なのか分からないもの、そして逆に複雑すぎて混乱をきたすもの、同じ用途の道具でも、こうまでかたちが異なると不思議ながらも面白い。



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 ● 盥(たらい)で洗濯、その姿勢は・・・・・・・。

左上; 巡回洗濯女 『明治大正珍商売往来80年物語』(昭和28年)より
右上; 湖での洗濯風景(中国雲南省 1996年)
左下; 折畳洗濯台(昭和30年)
右下; 昔のドイツの洗濯風景 『明治がらくた博覧会』、林丈二著、晶文社 より


本書の第1章では「冷たいのがイヤ! - 人類と洗濯との戦い」とあり、炊事や洗濯で使うゴム手袋や、湯沸器とともに、その多くが電気洗濯機が普及する以前の、手動式洗濯機のあれこれにスポットが照てられている。


いわゆる洗濯板といえば盥を使った洗濯の、左上図のイメージだけど。
この定着されたイメージの盥と洗濯板での洗濯も、明治に入って石鹸が普及してからのことらしい。

「巡回洗濯女」とはなんとも凄いネーミングながら、当時の、まだクリーニング屋が普及していなかった、東京などの大都市での下宿の学生や単身者の洗濯状況の隙間を埋める商売で面白い。
掃除・洗濯・炊事という家庭での労働のなかでも、やはり水仕事である洗濯がしめる労力は計り知れない。

本書では珍道具と謳っているため、登場する道具類もあえて一般的だった普通のもの(道具)がほとんど載っていない、この洗濯風景も、図ではなくその職能としての特殊性を注視したもの


右上のカラー写真は、モソ人が湖畔で洗濯している様子。
くらしの基本ともいえる洗濯の様子は、地方の旅ではよく見かけたお馴染みの風景のはずだけど、
この写真と、インドのカシーミールでパシュトゥーン族が洗濯している写真以外はスライドには撮られていなかった。
ネパールのバクタプールでは、近郊のティミの町で焼かれた大型の素焼の盥で洗濯していたし、そんな写真も白黒で撮ったはずだけど、まるで見つからない。

旅の移動の最中にあって洗濯は、洗濯物が乾き上がるまで足止めとなり、なにかとやっかいだ。
下着などはシャワーでの身体洗いと一緒に簡易に済ませられるけど、厚物のシャツやズボンは、洗う以上に洗濯物の水をしっかり絞りきる作業が大変だった。
このモソ人の民家には真新しい二層式洗濯機が置かれていたが、水の冷たい季節以外は使用されていない様子だったし、脱水機はそもそも使うこともなく、びしょびしょに濡れたままの洗濯物を、そのまま中庭にあるロープに干していた。
そのまま半日も放置しておけば、洗濯物も自然に乾き上がり、絞らないから衣服の傷みも少なく、彼らのくらしのテンポには最も理に適った方法なのかも知れない。
ともかく手洗いした洗濯物の脱水で、ここの脱水機を借りてとても重宝した。
初期の洗濯機に付いていた手廻しローラーより、遠心分離式へと移行する脱水機能の発展は、洗濯技術における革命的な発明といえそうだ。

洗濯機が登場する以前の洗濯の仕方は、石などに洗濯物を直に叩きつけて洗うもの、韓国などで多くなされていた砧打ちの要領で板で叩くもの、ブラシや洗濯板で擦るなど、その方法は様々だ。
日本の場合は当然ながら図のようにしゃがんだ姿勢で洗濯板を使うけど、洋の東西では姿勢に違いは見られるのだろうか。
椅子の文化の西洋とは異なり、日本人の仕事姿勢では胡座をかいたり、しゃがんだり、正座したりと、ともかく地辺にちかく低く座る姿勢が多く見られる。
中国はある面で椅子の文化の国だけど、アジアの多くの国では地に低い位置で座る、族座り(いわゆるウンチングスタイル)が意外に多い。
以前、道具学会の会員の画家の方が著した『アジアにおけるあの座り方』 (だったか?)という本を読んでみたら。
板きれ一枚や風呂場で使うような小さな椅子に座る、その(族座り)姿勢としての身体の楽さと道具との関係を追求したデーターが豊富に盛り込まれた内容でとても興味深かった。

欧米人は日本人にくらべると、やはり体形的に脛が長いから正座が出来ないのか、或いは慣習的な慣れの問題でしゃがんだり低く座るのが苦手なのか、ドイツの洗濯娘は長椅子に盥を乗せて嵩上げした立ち位置での作業姿だ。
以前観た『アレクセイと泉』本橋成一監督 のチェルノブイリのドキュメンタリー映画では、水場の洗濯場面では、木枠の框に女たちは跪き(ひざまづき)前屈みになって洗濯物を洗っていた。
跪く姿勢は、かってはカトリックなどのミサの典礼では度々繰り替えされる姿勢だったから、彼らにとって日常的に慣れている姿勢だったのか(ちなみに正教会では、立ち姿勢のまま椅子にも座らず典礼を行うというのを最近知った)!?
水面は身体より一段低いから当然ながら前傾姿勢となるのはともかく、盥のどの容器が確保できて、身近に水を寄せる条件が揃ってもしゃがんだりせず、椅子に座った姿勢や、立ち姿勢が楽なようだ。
跪く(ひざまづく)と蹲る(うづくまる)の姿勢のちがい。
跪くような姿勢は、日本人の生活には、あまり馴染みのない恰好なのではないだろうか。

余談ながら、鋸や鉋などの刃物では、西洋や中国のものは、日本のように手前に引いて切るのではなくて、手前に押して切るように使い方が逆になっていて、そんな身体の所作の動きが道具にも反映されている。
穀類を脱穀する農具の唐棹(くるり棒)も、沖縄のものは打撃部分に対して柄が短いため(本土の唐棹はその逆で柄が長く打撃部分は短い)、身体を前傾姿勢で深く折りこみながらの姿勢となり結構辛い作業ながらも、接地面が多いため一回あたりの作業効率は上がるという。
このような類例はアフリカでの鍬の使い方でも、短柄の鍬を極端なまでの屈伸姿勢でもって鍬先を地面に食い込ませ耕す仕方に顕著にみられ、耕す土質の硬さや粘度以外にも身体的に慣れた姿勢が優位に用いられることも多いと思われる。
それがアフリカのひとの体形的な差なのか、慣習的な問題なのか、同じ目的の道具でもその形体や身体の使い方がいろいろあって、見ていて興味が尽きない。

左下; 雑誌「婦人生活」の「婦人の発明」で選ばれたのがこの「たらいを乗せる木製の台」である折畳洗濯台。
本書では、著者は「この程度の発明で入選するなんて・・・・・・・・・・・」と、思わずもらしてしまっている。
三脚は凸凹した不安定な地面での安定が良い点、そして鋭角部分の手前が若干傾斜していて低い仕様が、そこに洗濯板を置いたり(若干高さが増す)、前面に力をいれてゴシゴシ押して洗う分には、力が更に加わるため強度的にも全方向にもたらす力を二点で分散させるその構造は、一応は理に適った作りのようだ。
また簡易収納できる折り畳み機能を取り込んだこともポイントとなっているかも知れない。
更に極端に云ってしまえば、理路整然とした完璧な発明品というよりは、誰もがちょっと考えれば得られる、そんなアイディアがこの手の主婦の雑誌の読者である主婦層に受け入れられ、その点を見越しての採用なのかもしれない。



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 ● 洗濯板いろいろ。

 左上; ガラス製の洗濯板、「海を渡った日本の花嫁」展より、JAICA 2009。
 左下; ネマガリタケ製洗濯板、恵庭市郷土博物館。
 右 : ネットにあった洗濯板。
  


洗濯板については、過去のブログで一度触れました参考下さい。
ブログ№025 「ギザギザが決め手! 洗濯板」





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 ● 『文化洗濯板』 「実用新案出願 6379号」、木製、535×270×18ミリ

こちらは山梨の骨董屋でみつけたデッドストックものの、うちの洗濯板。
三角の黒いギザギザ部分は、タイヤのチューブを加工して挟み込んである。
焼き印による鳩の商標や、全体のフォルムが気に入って、初卸しは気合いを入れて風呂場に洗濯物を持ち込み試してみたが、ゴム部分の当たりが洗濯物に微妙に感じ悪く、これなら普通の木の洗濯板のほうがはるかに道具としてましで、一向に洗濯効果が期待できない代物だった。
多分そのアイディアだけは良かったものの、実用新案もののヘンな道具にはついつい惹かれっぱなしの自分ながらも、結局一回使ったきりでめげてしまい、すっかり外してしまったもの。
洗濯板のその対価も、一時の夢を買わせてもらったに終わってしまった。
ある時代以前の特許品や新案ものは、ネット検索しても記録されていないので、いまだにこの洗濯板が商品化された経緯は依然謎のまま、どなたかご存じの方がいましたら教えて下さい。



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 ● 洗濯用具と洗濯機 『女性教室 せんたく』(昭和26年)。



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 ● 手動式洗濯機のいろいろ

洗濯が、盥+洗濯板から電気洗濯機に移行するまでの、黎明期-過渡期に現れては消えていった洗濯機、そこにはからくり人形的なもの、真空ナントカといった不思議なもの、漬け物桶洗濯機?などいろいろ変わったものが見られる。



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 ● 手動式回転洗濯機 攪拌機能そのルーツは?

上段: 白黒写真は、中部ネパール カリガンダキ(川の名前)筋のボテ(主に漁労に携わる職能カースト)の家に泊まったときのもの。
水牛の乳を攪拌させギー(牛脂)と分離(チャーニング)させているところ。
テキ(容器、脇にかかえて運搬できるように口の部分が細くくびれている)に羽の付いた棒を突っ込み紐掛けし、轆轤(ろくろ)ひきの要領で攪拌させている。
家屋の柱に穴のあいた主軸(素朴ながらも彫刻が施されている)を渡し、そこに羽付き棒を通して支えているだけのいたって単純な構造。
テキに足を当てて座り、身体を突っ張らせて腕を前後に動かすだけで、羽付き棒がぶれずに、実に高速で回転する。


中段; アイスクリーム製造器    調布市郷土博物館にて。
こちらも木桶に羽を突っ込み回転させ攪拌させる方式、左は単純に羽にハンドルを直結させた構造で、左下の手回し洗濯機と同じく、ハンドルを水平にぐるぐる回す方式。
右はそれに歯車の機構を組み込み直角に垂直方向に90度回転させる改良されたハンドルを付けたもの。
コーヒーミルを例にとってみるととても解りやすいけど、水平回転式では肩の運きも同時に加わり上半身を全体的に動かさなくてはならず、それに比べると垂直回転式では手首のスナップを効かせ回せば上半身の身体の負担はそれ程でもない。


下段; 本書で紹介されていた図版。
羽で槽の内部を攪拌させる方法は、アイスクリーム製造器とほぼ同じ構造。
ただ木桶を逆さにしたような裾広がりのかたちに、いずれも造られている。
著者によると、漬け物桶よりの転用ということだけど、残念ながらなぜそういうかたちに造るかは定かではない。
女の子のほうの洗濯機は、ハンドルが余りに長すぎ、これでは槽の周りを回らなくてはならない。
またご婦人の洗濯機では、座り姿勢でもってハンドルを回転させるとどうしても身体が前のめりとなるらしく、図の夫人も足の部分が若干爪先立っているという、なるほどこういったちょっとした著者の観察が、とても参考になる。



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 ● 手動式回転洗濯機

やはり水平回転させるよりは、垂直回転させるほうが身体が楽なのか、こちらの洗濯機はいずれも垂直回転のハンドルが付いたもの。
上段の左右の二つは瓜二つのかたちながら、左の写真のものは洗濯機ではなく実はてバター製造器<恵庭市郷土博物館>。
かなり大型の樽に布ベルトを掛けて動力で回転させる方式。
酪農王国の北海道とはいえ、こんな道具もやはりあったのかと、近ごろ博物館で見つけて一番嬉しかったもの。
一方右の図版の手回し洗濯機(昭和17年)には、横にした槽の内側に回転するドラムが付いているというが、その大きさが不明というもの。
盥(たらい)と洗濯板でもって、ごしごし洗濯するのとことなり、このように槽に洗濯物を溜込んで攪拌させる方式では、洗剤が必要という

まるで、歳末の大売り出しの抽選会で使うガラガラポンのくじ引き機械のような、三角形の手回し洗濯機(左中、大正13年)は、関東大震災直後の広告のもの。
こちらは珍しく立ち位置で作業が出来るように長い脚がついている。
多分、三角形の外側は回転せず固定されていて、中にある羽が回る作りとなっているのではないかと思う。
立ち位置は楽とはいえ、こんな高い位置まで水を注ぎ込まなくてはならない不便さはどうしたものだろう。

日本で電気洗濯機が一般家庭に普及し始めるのは戦後の1950年頃(昭和20年代後半)以降という、まだまだ高価な製品だったから、一人住まいや少人数のお宅では、このようなパーソナル洗濯機(右中、昭和33年)が用いられたかもしれない。

直径二尺ほどの大きさの球形の手回し洗濯機(下段、旭川市立博物館)は、本書の珍道具には紹介されてはいないけど、手回し洗濯機といえば”このかたち”というぐらい、博物館の展示でよく見かける手回し洗濯機です。
一番最初にこの手回し洗濯機を見たのが、実は博物館ではなくて近所の骨董屋のニコニコ堂、特に或る時期の有機的なフォルムの工業製品が好きな自分としては、店主<後に息子が直木賞を受賞して、このオヤジ自身も結構有名人となる>自ら、コックに付いたレバーを開けて中を覗かせてくれて、とぼけた口調でもって、耳元で「いいでしょう~!」と小さく囁かれると、まるで魔法にかかったように怪しい魔力に満たされて、ぐぐっと欲しくなってしまう。
蓋の部分のデザイン、アルミボディーの仕上げ具合、口辺部にはアメリカのパテントナンバーも刻まれておりそんな些細な点にも魅せられて、おもわず財布から五千円札を取り出すところだった。
しかしねぇ~、洗えてもせいぜい下着や靴下程度の容量だし、家の中で場塞ぎになることが確実に見えている。
結局その時はパスしたものの、物欲大権現と化してしまった現在では、あらたに加えてみたいアイテムだ。



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 ● 手動から電動へ

左上; むすめせんたくき 『新式衣類洗濯法全集』(昭和2年)、
関東大震災から復興期に登場したのがこの製品。
構造が進化し、ハンドルを回すと洗濯槽の横っ腹に取り付けられた滑車が回る。
ドラム缶のような筒の内側に一回り小さい洗濯槽穴あきドラム缶が入っていて、滑車の回転を鉄製のギヤで内側の穴あきドラム缶に伝える方式。
つまり今日の「縦型斜めドラム式」洗濯機と同じような動きらしい。
斜め式だから、しゃがまなくてもいい。石鹸や水が少なくてもいい。ハンドルをゆっくり回してもドラムは回転する利点がある。

中上; 手漕ぎ舟(左、舶来品)、電気洗濯機(右、アメリカ製) 『家庭百科重宝辞典』(昭和7年)

右上; 機械化坊さんの手作り洗濯機  『家の光』(昭和24年)、
写真には「電気せんたく機も、映画機のモーターを利用して作ったおかげで、奥さんは大喜び」とある。
弔うだけが僧侶じゃない、穢れを落とし修復するのが業である・・・・・・合掌 という著者の言葉におもわず爆笑。

左下; 電気洗濯機 北海道博物館(旧北海道開拓記念館)にて
中下; 電気洗濯機 八王子市立郷土博物館にて
右下; 電気洗濯機 恵庭市郷土博物館にて

初期の電気洗濯機も、こうして並べてみると時代とともに微妙にかたちやデザインが変化していてなかなか面白い。
子供の頃のはかない記憶にある洗濯機は、祖母の団地で使われていた、右下のような洗濯機で、お手伝いと称して洗濯物をローラーに挟み、ぐるぐるハンドルを回して遊んだ記憶がある。
タイの屋台でスルメを買うと、食べやすいようにローラーで伸してくれるのだけど、その伸したイカがローラーから現れる様子を見て、子供の頃のこの洗濯機ごっこを思い出してしまう自分がいる。
この時代の白もの家電の洗濯機のデザインも、色や素材の使い方などで冷蔵庫に共通するものがあり、いずれもなかなか素敵だ。



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 ● 洗濯の変遷展示      八王子市郷土博物館展示より。

アイロンの推移(火熨し、炭火アイロン、電気アイロン)の背後にあるのが、洗濯の推移。
この展示の上に掛けられた小さな写真パネルには、民家の軒先で洗濯に励む母親が写っていた。
写真のキャプションには「たくましい子になっておくれ」とある。
なんだか、これに「わんぱく」をつければ丸大ハンバーグのCMのようなコピーだ。


グルメではなく、庶民の身近な視点で食文化に切り込みをいれる、著者の魚柄仁之助。
本書を読んでいると、珍道具好きにとっては、ますますヘンなオヤジだなぁと、ついつい嬉しくなってしまった。


広告から読む世相史ものでは
ブログ№248 大正時代の身の上相談
があり、そちらにも洗濯板や洗濯機が紹介されています、併せて見ていただければ幸いです。



「古屋の漏れ」実家で屋根のつけかえ工事が発生、8月は盆の帰省と手伝いを兼ねて、このブログも一ヶ月お休みします。今回は洗濯機も取りあげたことですし、ついでながらこころの洗濯もしてくるつもりです!   (*^_^*) 




  1. 2017/08/05(土) 15:03:02|
  2. 洗濯板
  3. | コメント:0

368 見知らぬ町へ






「見知らぬ町へ」なんていうと、なんだか谷口ジロー描く世界のようなニュアンスだけど。展覧会の後片付けの手伝いで、突然ながら一泊二日九州へ行ってきました。<2017年7月23-24日>



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 ● 「見知らぬ町へ」行くのは、やはりどこか旅気分、さてどこに着くのやら・・・・・。

九州なんていつ以来だろう。確か前に行った熊本の時は、まだ2000年になっていなかったはず。
羽田では待ち合わせ時間のみ、展示の片付けとは聞いてはいるけれど、詳しい情報は一切なし。
まずは九州の空の玄関博多空港へ、そこからローカル線を乗り継いで結構な田舎へ行くらしい。

上段 ; この日は二十四節気の大暑、九州はむんむんに蒸してました。博多空港は市内とのアクセスも抜群に良く便利です。
二段目; 福北ゆたか線。JR九州の、車両が意外とモダンな電車です。新飯塚へ。
三段目; 後藤寺線。ローカルの一両編成のワンマン列車(ディーゼル)、車内の扇風機はレトロな国鉄時代のものか? 終駅、田川後藤寺に到着。
下段 ; いわゆる筑豊エリア、車窓より突然現れた大きな工場は炭坑ではなく石灰採掘工場らしい。




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 ● 「田川後藤寺」

あっちゃ~! 「見知らぬ町へ」の儚い期待を一気に吹き飛ばしてしまうような閑散とした雰囲気。
かつては炭坑(ヤマ)で栄えて遊廓まで有したほどの栄華を極めたと謳われたらしいけど。現在列車は一時間に1・2本。
アクセス強化の駅前看板の効果も虚しく、ひろがる駅前のシャター商店街。
う~ん、確かになにもない町です。
シャシャシャ・・・・・・・・・と、この暑い最中に、さらに暑さにに追い打ちをかけるようなクマゼミの狂い鳴き。
そんな寂れた駅のホームで、まずは作業前の腹ごなし。
旅情気分を無理矢理高めるべく博多で買ったかしわめし弁当「大名道中駕篭」1030円でお茶をにごす。



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 ● 「た~んとあります。」田川の魅力を召し上がれ。   田川市

町を挙げてのポスターに書かれた、秀逸なコピーはよいけれど、やはり魅力となるとまた別物か!?

勝手になにもない町の第一印象を振った田川市だったが、実は田川はかっての炭坑(ヤマ)の町であり、市の石炭記念公園内には「石炭・歴史博物館」 (今年のGW連休にリニューアルオープン)がある。
館蔵の山本作兵衛コレクションは、炭坑で働く人々の姿を独特なタッチで詳細に描いた記録画で。
絵としては確かに達者ではないけれど、その独特な作風は一度見たら忘れられなくなるようなインパクトがあり、確かにこの画は以前テレビで見たのか記憶がある。
そして驚くなかれ、このコレクションは、オランダのアンネ・フランクの日記のように、ユネスコ世界記録遺産(世界の記憶)に登録<日本初>されているという。

ホテルの窓から見えていた、にょきにょき2本のあの怪しげな煙突がこの博物館だったのだなぁと納得した。
また、市の美術館にも作兵衛の常設展示室が設けられ、彼の記録画の写真と共にそのシーンに併せた博多人形が展示されていた。(下段)
山本作兵衛は、町を挙げての、いや日本を代表する記録画の偉人なのだった。
そして同様に、ただの寂れた田舎町とは侮れない、田川市なのだった。




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 ● 田川市美術館

田川市には、図書館と隣接して、とても立派な美術館が建っている。
開館時の90年代当初からしばらくは、現代美術家である川俣正とタイアップして様々なアート・イヴェントが行われていたことを知り、さらに一地方美術館にして、あの時代にこの濃い企画がなされていたとは驚かされるばかりだ。

今回の作業はこの展覧会の片付けとなる。
上條作品は、これまで単品では幾度か目にはしていたけれど、さすがに美術館で一堂に並ぶとなかなかの迫力で見応えがある。
パレスチナよりイメージされたオブジェやインスタレーションなど、切り紙風の混合技法でもって自在に表現されている。
互いの作品が連呼し共鳴し合い、独自の世界観を構築している。
また、パレスチナの子どもたちの作品も、見ていてとても活々として色鮮やかで面白い。



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 ● 作業開始!

上段  ; パレスチナの子どもの作品、右は日本の子どもとパレスチナの子どもとの合作。
中段下段; 上條作品


ともかく細々とした部品が多く、各々を丁寧に梱包していく。
展覧会で整然と陳列された作品を鑑賞するのとはまた別の視点で、このような作品に直に触れる作業より、作品の持ち味を感じることも多く、このような実作業はとても楽しい。
特にパレスチナの物品を箱詰めしたようなオブジェには、現地の情報が満載だ。
片付けは、流れを掴めばそれほど神経を使う作業ではないけれども、展示の設営はとても大変だったに違いない。
館のスタッフは皆若く、気さくな館長の指示のもと、てきぱきと動きとてもよい雰囲気だった。



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 ● ミュージアムショップ

ショップでは展覧会図録やカード以外にも、子供用にクレヨンや水彩絵の具などの画材、ほかにもちょっとした小物が販売されている。
どれもがポップでキュートなものばかり。
みていて大人も欲しくなるような文具も結構ある。

「かおノー モンスター」、1080円
「 kakuno」(PAILOT万年筆)、1080円
「色鉛筆」(12色)STABIRO、648円
「はじめてのもちかたクレヨン」、(Faber Casttle)864円



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 ● 会期中の子どもを中心としたワークショップより。

 上段; 「世界にひとつだけの帽子を作ろう!」
上條先生のギャラリートークで展覧会を鑑賞した後、みんなで帽子作り。
紙やフェルトを使ってオリジナルの帽子制作、切ったり、貼ったり、折ったり、工夫を凝らし世界にひとつだけの帽子が完成!

 中・下段; 「わたしってどんなカタチ?」
田川市立後藤寺小学校の体育館で行った出張ワークショップ。
子どもたち(3年生)が上條先生に教わりながら、等身大の自画像を作る。
大きな紙の上に寝ころんで友達のカタチをなぞったり、紙いっぱいに色塗りしたり、普段できない体験にみんな大はしゃぎ。



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 ● ワークショップで制作した自画像をこれから展示。

片付け作業と平行して、美術館のスタッフが今回のワークショップで制作した子ども達の自画像を展示。
各自おもうがままに伸々と身体を動かし、自由に楽しみながらの制作風景が目に浮かぶようで、どの作品も微笑ましい。
パレスチナの子ども達に絵を長らく教えてきた、上條先生ならではの独特の感性が、この町の小学生にもしっかりと伝えられたことと思う。
少子化していく町にあって、やはり子どもたちは未来の財産だ。

最後は子どもの描いた絵を楽しみながら、美術館での片付け作業も無事終了。
田川のイメージは、当初のなにもないから町から、「た~んとあります」にしっかり変わりました。



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 ● 〆はやはりラーメンで!

二日間に亘る作業も終わり、筑豊の小さな田舎町より、博多という大都会に舞い戻ってみるとそのエネルギッシュな熱気に圧倒させられます。

観光無縁の滞在ながら、飛行機に乗る前に、最後にちょこっとだけお上りさん気分。
駅のモールにあったラーメン街道なる、ラーメン店が十余店入った中より選んでみたのが、博多ラーメンの「博多一辛舎」
泡々とした濃厚な豚骨スープに、店オリジナルの「辛子高菜油いため」(激辛)が良く合います。
ビールとともに頼んだ餃子は、一見その小ささに驚かされたものの、具に入っているコリコリとした食感がとても不思議で、問うとナンコツとのこと、ちょっと変わった感じの餃子ながら、食感ともに悪くありません。
本来が道産子らしく慣れで素朴な北海道ラーメンがやはり好きだけど、豚骨ラーメンの細麺がスープによく馴染み、博多ラーメンの美味さも少しばかり理解できた一時となりました。



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 ● 短いながらも楽しい九州でした。

パレスチナの子どもが描いた上條先生(下)は、絶妙なほど先生を現していておもわず笑ってしまった。
最後はそんな先生のバイバイ姿で・・・・・・・・・。さようなら!



もし田川を訪れることがあったなら、今度は是非「石炭・歴史博物館」を観てみたい!! (^-^) 




  1. 2017/07/25(火) 21:55:42|
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