うちのガラクタ

古びたモノが好きです。日常の捕って付けたようなモノ・コトの紹介です。

362 帰省日誌 余市





帰道翌日(2017年6月22日)は、小樽よりローカル線の長万部(おしゃまんべ)行きの各駅列車に乗り換え余市へ行ってみました。
余市も一年ぶり、昨年は蘭島駅で途中下車して、日本では希有な続縄文文化の線刻壁画が残るフゴッペ洞窟を観に海岸線をひたすら歩き、さらに余市の町に入るまで随分手こずったおぼえがありますが、列車ですと蘭島を過ぎるとあっという間に余市に到着です。



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 ● 余市も一年ぶり。

長万部線は2両編成のローカル線。
ニッカウヰスキーのマッサン効果か、車内では余市に向かうアジアからの観光客も多く、中国語やタイ語が飛び交います。
服装や持ち物しぐさなどをよく観察すると、やはり日本人旅行者とは似ているようで随分と異なっています。
余市駅に到着すると、すかさずアジアグループはカメラを構えての記念撮影。
そんな観光での記念写真を撮っている人の姿を撮るのが好きで、お登りさん気分でこちらも彼らの後ろにまわりカメラを構えるもタイミングが合わず残念。
札幌よりSUICAで入ったけど、どうやらこの路線はICカードが使えず、大勢の観光客で溢れ改札での精算に手こずります。

ニッカウヰスキー工場へは駅舎を出れば直ぐなのですが、よくみると駅舎の2階にはスキージャンプ記念室があり、ついでながら寄ってみました。
誰もいないがら~んとしたワンフロアーには、歴代のジャンプ競技の装具や写真がずらりと並んでいます。
人っこ一人いない、このなんともいえない閑散さ、好きだなぁ!
そういえばこの町からは有名なジャンプ選手も結構出ていたのだなぁと、サイン色紙を見ながらしばし納得。
スキー板やビンディング、ヘルメットやゴーグル、グラブ、シューズにウェア。
現代の気流力学も計算された最新鋭の装備に比べ、ジャンプ競技の初期の頃は、ほとんど丸腰姿で宙を飛んでいたのだなぁと、額装された写真を見て感心。
その飛翔フォームは、初期のころには鳥が羽ばたくようにバタバタしているポーズの写真もあります。
札幌オリンピック(1972年)のジャンプ競技での英雄・笠谷選手も余市の出身、毛糸の帽子姿で宙を舞ってます。
余市には道の駅のとなりに、現在宇宙記念館・スペース童夢があり、そういえば宇宙飛行士の毛利さんもこの町の出身。
「ジャンプのはじまり未来へ」と謳われたこの記念室、スペースシャトルが飛ぶまでは、町として一番アピールできる施設だったのかもしれません。
余市といえば、ニッカウヰスキーと鮎生息地の北限ということぐらいしか知らなかったけど、あらためて宙に通じた世界に開かれた町だったのですね。



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 ● ニッカウヰスキー余市醸造所

今回の余市は、一応博物館を観に来たのですが。
その帰りにでも寄ろうとおもっていたニッカウヰスキーながら、どうしても前を通り過ぎてしまうので、急遽予定変更。
雨空の余市は意外と寒い、景気付けにこちらで先に喉にお湿りを与え、体を温めることにしました。

受付で自由見学を告げるも、いまでは試飲のために、お一人様一枚の試飲カードの提出が必要という新ルールとなり、ウェイティングルームで手続きをしに向かいます。
ここでは丁度グループツアーの解説中でしたので、ついでながらコンパニオンの解説シーンも撮っておく。
そのジャケットは、ウイスキーの本場スコットランド風に赤と黒のタータン・チェック格子と、なかなかお洒落なデザインです。

醸造所内、かって知ったるルートで、スティームポット、貯蔵蔵などを早足で巡ります。



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 ● バー・ラウンジ、展示品と写真など。

企業名”ニッカ”とは、云わずと知れた「大日本果汁株式會社」の略称。
創業当初を彷彿とさせるような、林檎汁の当時のポスターや工場内の写真が目を惹きます。
そんな点をキーワードに見ていくと、変わったものでは、手動のリンゴ皮むき機がありました。
この皮むき機、リンゴをひとつずつ手包丁で剥くよりは、鉛筆削り機のように簡便な構造ですが、はたしてどれほど生産性があったものか?
昭和12年発売、実際にはどれほど使われた道具だったのか疑問です。
効率を求めどこまでを追求し、手の延長として合理化させて道具化していくのか、そんな点を考えながら、歯車やそれに連動する刃のしくみを観察してみると、この皮むき機も、道具としてなかなか面白い存在です。
同様に、和洋の道具が混在してみられる樽作りのコーナーも、興味深く拝見しました。



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 ● 試飲会場にて。

レストランや売店、試飲会場のあるブースは敷地内の一番奥側、駐車場の側にあります。
大型の観光バスで乗り入れて、醸造所内をくまなく見学後に、最後に試飲とお土産という日本の正しい観光の流れを踏襲した施設ながら。
個人見学者は入口から入り、試飲会場までと醸造所内を長く歩くコースとなります。
昨年度は、お目当ての醸造所内限定販売のウィスキーをゲットする目的がありましたが、今回はみえみえの試飲のみが目的、真面目な正しい見学客を装いつつも、どこか小さくなってそそくさと会場へ向かいます。

海外勢では近年はアジアンパワーが根強いものの、日本のウイスキーも国際的に評価されてきたのか、欧米系の見学者も若干みられます。
かってのアジアの旅では、ウィスキーとは名ばかりの米から作った着色蒸留酒も幾度か飲み、後悔したものですが。
アジアの各国でも、本物のウィスキーの人気が高まっているのを感じます。
ウィスキーの本場英国に倣い、気候風土のよく似た北海道の大地で育まれた日本のウィスキーも、100年を待たずして世界的な評価にまで達しました、ドラマのマッサン効果も加わり、醸造所見学は余市一の人気スポットとなりました。

試飲会場では、受付で試飲カードを提出後トレーを受け、竹鶴・シングルモルト・アップルワインの3種類が配給されます。
氷や水、ソーダー水はご自由に、ほかにもソフトドリンクとしてウーロン茶やリンゴジュースがあります、おつまみは自販機で有料です。
試飲はお一人様一回一杯ずつ、配給カウンター脇には柵が垣されての一方通行、以前のようにお酒をその都度自由にお代わりできないシステムになりました。
窓辺の席に陣取り、一人文庫本を読みながら数回のお代わりのローテーションをへて、静かにグラスを傾けるような至福の一時は得れなくなってしまったのが少々残念。
なかにはお代わりをズルしているオジサンも見かけますが、大人気ないのでやめておきます。
といっても、逆に少量であるからこその価値ある一杯。
樽形のグラスに被せてある紙蓋を開け、スノージングしてその薫香を愉しみ、琥珀色の液体を舌の上にゆっくり転がし味わいます。
リンゴ酒では巷にシードルは溢れているけれど、アップルワインとして、リンゴをワインとして作ったのはニッカが世界最初だったとか、確かそんな一文が以前読んだ谷村志穂のリンゴ紀行に載っていたような・・・・・・・。
アップルワインは、度数も普通のワインよりは幾分高めで、リンゴ独特の芳香が楽しめます。
道民にとっては、どこか懐かしいニッカのアップルワインです。
シングルモルトと竹鶴、各々を水チェイサーで味比べ、窓越しに見える木々は北海道らしい白樺などの樺系の樹種、クールにテースティングしながらも、微量に得たアルコールで幾分上気した面持ちで博物館へと移動します。



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 ● よいち水産博物館

ニッカウヰスキー醸造所より歩くこと15分、余市川を渡り役場向かいの小高いモイレ山の上に建つ博物館に到着。
博物館は北海道百年地域記念事業の一環として昭和44年に開館、和船の艫先が突き出たその独特な建物は、内部の展示方法もやはりその時代ならではのアナログ式で、なんとも懐かしくなるレトロな博物館です。
途中で見かけた道の駅に付随する余市宇宙記念館などの、現代的な大型の集客施設にくらべ、未だに未舗装で、今日のような雨の日はしっかり雨溜まりができてしまう駐車場のこの施設。
市内観光では、共通割引券で博物館もアピールしてはいるものの、団体観光客が訪れるのは、どうしても駐車の便がよく、大型のモールでお目当てのお土産が買えるような総合施設や景勝地に限られるようで。
こちらも先にみたスキージャンプ記念室同様に、見学者もほとんどいなく閑散としています。
むしろ人がいない点が見学には好ましく、観光客特有の勝手な戯言に害されることもなく、逆にじっくり資料観察に没入できる、まさに独り占めの空間。
博物館好きには、こういったタイミングと、いささか時代に取り残されたようなちょっとした展示の古くささも、見学の魅力としてポイントが大きく加算されます。
地域の基礎をつくったニシン漁などの漁労具や、生活用品などの郷土資料を中心に、アイヌ関連の資料と付設考古資料展示室(余市町歴史民俗資料館、昭和54年開館)があり、よく観ると、どうして、この空間に結構な貴重な資料を所蔵しています。

むかしの役場に掲げられていた市標も堂々と陳列されていて、開館当初は町を挙げて待て囃された文化施設だったことが偲ばれます。

北国のウイスキーの発祥の地余市らしく、入口の「よいち水産博物館」のプレート前にも、ウイスキー醸造所にあるスチームポットの模型などの資料が一部紹介されていますが、ウイスキー関連資料の紹介はニッカウヰスキー醸造所に譲り、ここでは地域の基幹産業となったリンゴ栽培に関する周辺資料がコーナー展示されていました。



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 ● 江戸時代に奉納された船絵馬や、リンゴ関連の資料。

1段目; 海の道、江戸時代から明治時代まで、人や物資を運んだ主役は海上運送です。
航海安全を祈願して、神社に奉納されたその船絵馬には、越後や若狭など北陸地方の地名が確認できます。

2段目ちょっともこもことした手提げ鞄は、よく見たらゴマフアザラシの皮が貼られた珍しいものでした、なんともいえないそのお洒落感覚に脱帽。

余市は、旧会津藩士団体によって開拓された一面があり、1979(明治12)年、はじめてリンゴが実ります。
余市で初めて実ったリンゴは、アメリカ産の品種の19号、49 号など。
初年度は数個の結実だったものの、やがて一本のリンゴの木から50Kgほども収穫できるように収量が高まります。
後に19号が「緋ノ衣」、49号が「国光」と名付けられ。
余市リンゴの販路が広がったのは明治30年代後半で、栽培面積の拡大と鉄路の余市駅開業が重なった時期です。
当時の年生産高は北海道全体の3割を超える量で、これまで船で運ばれたリンゴは鉄路で内陸までくまなく運ばれるように、その流れが大きく変わります。
余市の生産者による貨車輸送は大正10年頃からはじまり、専門のリンゴ問屋が生まれます。
余市駅開業(明治35年)後は、すぐにリンゴの駅売りがはじまり、そのリンゴ容器もカゴ入りから、町内で木綿糸製の網袋が考案され、全国からその網袋の問い合わせが殺到したといいます。
展示資料では、掛け袋の三角袋とその製作具、選定型、リンゴの摘みカゴ、リンゴ箱に貼られていたなかなか凝ったデザインのラベルなどがみられました。
「国光」という名前は子供ごころに記憶があります。
ほかにも「いんど」(どういう字を充てるかは不明)、「紅玉」など、芯に蜜が入るデリシャスやスターキングなどが登場する以前のリンゴは、籾殻の敷き詰められたリンゴ箱に綺麗に納まり、素朴な味がしたものです。
いまのリンゴはほとんどがフジとの交配種といいますから、当時のリンゴの酸味の効いた素朴な品種の味がなんとも懐かしいかぎりです。
冬場に暖をとりながらストーヴに乗せ、バターをたっぷり芯に詰めてつくる焼きリンゴが、当時の子ども達にとっては、嬉しいばかりの北国のおやつでした。
余談ながら、リンゴ箱といえば、以前六本木の21+デザインギャラリーで観た「東北の手しごと」展では、青森のリンゴ箱職人作業風景姿に、現代的なラップミュージックのBGMを職人の槌打ち姿にシンクロさせた、とてもスタイリッシュな映像でした。
会場では、こうして仕上がったリンゴ箱をうずたかく積み上げ、オブジェ風に演出していました。
また近頃借りたDVD、ザザ・ウルシャゼ監督のジョージア映画「みかんの丘」”TANGERINES” (2013)でも、冒頭シーンで主人公であるエストニア人の木箱職人の老人が作業小屋で作るミカン箱が、リンゴ箱とサイズ的にもよく似た作りでした。
渋い弦楽器の民族音楽の響べのなか、人々が去っていった寂しい村で、老人が独り寡黙に木箱を仕上げていくシーンが印象的でした。
博物館の展示ではリンゴ箱の商標や、摺り版として文字を記載するテンプレート、木箱の釘抜きなどは展示されてはいましたが、肝心の出荷箱は展示されておらず、木箱職人をはじめリンゴ箱に関する情報も幾分知りたく思いました。
このようなリンゴ箱や、いまでも魚屋で見かけるトロ箱など、運送用の出荷箱の背景も、土産物の簡易カゴ同様に注視したいポイントです。

下段; 酒や醤油を入れる容器として、江戸時代に海外へ輸出されたコンプラ瓶 (ポルトガル語のコンプラードの略称で仲買人買い付けに由来)片は市内の大川遺跡からの出土品。
こんな北国の地にあっても、このような交易品(あるいは漂着物なのか)の流通があった点が興味深いです。




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 ● アイヌ関連資料。

アイヌ関連資料にもこの館ならではの、独特なものが見られます。

左上; アイヌの衣服にみる文様にも地域性が大きく表れます。
この衣服の素地は和人との交易品の木綿の縞模様の着物で、そこに文様を刺しています。

右上; 「タマサイ」と呼ばれるガラス玉の首飾り。

左中; アイヌが豊漁を祈る儀式で使ったという「カムイギリ」は、アイヌが海の神と崇めたシャチを現した木彫りの神具で、その魚体にはアイヌ模様特有の透かしがあり下部には小さな穴が数カ所確認でき、配下として海獣や魚などの木彫りが提げられていたとされている。
カムイギリは余市から留萌管内にかけての海岸沿いのコタン(集落)の長の家に代々宝物として受け継がれてきたが現存するものは非常に少ないといいます。
その材の古さから明治頃の作と云われ、蒐集家の考証のもと札幌の骨董屋から見出されて、博物館に寄贈されるという独自の経緯をたどる資料で、2009年当時のその新聞記事、別の再現資料とともに並べて展示されていました。

右中; 鹿角製飾り太刀には細やかな模様が施されていています。

左下; 古い写真は余市で見られたアイヌの墓標、『蝦夷往来』より。
墓標のかたちは男女の別と地域性があり、それぞれ随分と異なっているようです。


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 ● 日本海を周航していた北前船(弁財船)の模型、ニシン漁に関したジオラマや絵図の資料。

水産博物館の目玉は、やはりニシン漁関連の資料の豊富さでしょうか。
館内では当時のニシン漁で使われたさまざまな道具が展示されています。

北海道ニシン地方別漁獲高(右上)のグラフにみる通り、ニシン漁の活況は江戸時代から昭和30年頃まで続きます、そのピークは大正時代です。
『湯内漁場盛業俯瞰図』 (左上、部分)をはじめ、明治時代の賑やかな漁の様子が描かれた絵図が残されています。
当時の漁場を再現したジオラマや油絵も昭和時代開館の博物館らしく、手作り感であふれてなかなか素敵です。
板材による指物製の「モッコ」 (左下)には、それぞれの親方の印が記されています。
このモッコでニシンを陸まで背負って運びます。
ニシンは主に肥料として利用され、陸揚げされたニシンを大型のニシンナベで煮て、角胴や丸胴と呼ばれる絞り機でしぼり乾燥させて肥料に加工しました。
館内には、絵図にあるようなそんな大型の加工道具も漏らさず展示されています。
写真(右下)は、ニシン沖場箱詰の様子です(大正4年)、ニシン漁で栄えた時代の活気溢れる浜辺の光景です。



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 ● ちょっと気になったニシン関連資料など。

この博物館も二度目の見学ながら、改らたに気になる資料がありました。

上; 座り作業のイラストが付された「したしき」も、そんな資料のひとつで、ニシンつぶしの作業に使う汚物を避け用の膝当てですが。
よく見ると俵状の茣蓙編みの間に樺皮が挟み込まれていて、膝への防汚効果を高めた作りとなっています。
樺皮は火点きが良いため、点け木の役割の需要があるのは知っていましたが、いまではビニール一枚あれば事足りてしまう問題ながらも、このような木の剥皮の利用も面白く観察しました。

中; 「粕クダキ」は把手を回せば、内部にはまるで拷問道具のような構造の鉄歯が納まり、圧搾されたニシン粕を細かく粉砕する道具のようです。
資料にはNHKの「マッサン」に貸し出したという”○マ”マークが付いており、周囲を見回すとこのマークが付いた資料も結構な数がみられます。
昨年はこのマークにまるで気付かず、無頓着だったけれど、今回昨年撮った写真を見直してみると、似たようなアングルでもってカットも同じような写真を撮影していたことが判明しました。
意識して観ることで見えてくる、その認識の不思議さを改めて感じさせられた思いです。

右下;弧状に微妙なカーブがついた木製の万力は「身欠き結束機」です。
身欠きニシン100本を1把として結束し出荷しました。
結束紐として用いられているのは、シナノキなどの靱皮繊維でしょうか?

このコーナーで流れるBGMは、ただひたすらに繰り返されるニシン漁の労働歌であるソーラン節です。
ソーラン節といえば小学校の鼓笛隊での選択曲で、ぴーひょろといった笛のイメージが強かったのですが、真面目に耳を傾けるたのはその時以来のことです。
編曲されて現代民謡となったソーラン節は、正調ソーラン節とはまるで異なった唄です。
お国訛りが激しく、言葉の半分ほどは何を言っているのかまるでわかりません。
こぶしの効いた淡々とした胴元の渋い歌声に呼応する合いの手、どこか懐かしい調子の響きに一度はまると、沖間で揺れる船上で身体が自然と網を引き揚げるようなそのリズムに馴染んでしまい、労働の場にトリップしていくような錯覚にとらわれます。
この感覚は、以前、酒造博物館の酒蔵で酒造民具の実測をしていていたときに、繰り返し流れていた、杜氏による仕込み歌同様に、就労の臨場感をもたらし悪くありません。
何節にも及び繰り返される、歌詞のリフレインは、労働の作業量と時を計る役割を兼ねているようです。
数ある博物館の展示では、展示内容とはまったく無縁で、時に場違いなヒーリングミュージックや、オルゴールが奏でる妙にメルヘンチックな甘いメロディーなどがBGMとして用いられているケースも多く、その選曲と音量に展示物の鑑賞に干渉する経験も多くありました。
趣向の違いはあるものの、塩梅というのは難しいもので、時に名曲も音害と表裏一体となることも珍しくありません。
ニシン漁で、実際に唄い継がれてきたソーラン節は、まさに活きた音源資料であり、ここでは最適な組み合わせでした。



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 ● 考古関連資料も充実している。

博物館資料の最後は、付設の歴史民俗資料室にずらりと並ぶ考古資料です。

右上; やはり何といっても興味深いのは、昨年中心に観た、国内では希有な多くの線刻画がみられる国指定史跡のフゴッペ洞窟関連の資料写真と、出土土器(続縄文時代)です。(奥の展示コーナーにあるもの)

左中上段; 天内山(あまうちやま)遺跡の遺構と出土遺物は、昭和51年に北海道指定文化財となったもので、10基の墓抗が発掘され、その形態から3つの様式に分類されています。
土器の形式<後北式土器・約1500年前、擦文式土器・約1000年前)>によって長期にわたってこの大地が墓地に利用されていたことが伺い知れます。
貝塚はアイヌ文化期(江戸時代末~明治時代初期)のもので、アイヌ文化期の遺物として、鉄鍋片、キセル雁首、マキリ(刀子)、舟釘、首輪、骨角器、石製円環などが貝塚および台地上から出土しました。

右中上段; フゴッペ貝塚出土の円筒土器(縄文時代前期)

左中下段; フゴッペ貝塚出土の十字架土偶は、竪穴住居の床面から出土した高さ5.7㎝の小型なもので、額や体の部分表現は見られず、全体の形はまるでヒトデのようです。
腕と思われる部分には縦方向に貫通孔があり、紐を通してぶら下げた可能性があるといわれます。

右中下段; 手形・足形付き土版は、土偶などに比べると全国的にみても数十点の発見と大変数が少なく。
縄文土器や土偶製作に比べ、簡単に製作できる土版ながらもなぜこんなにも発見されないのか、その理由も謎のままです。
発見されたものは、ほぼ縄文時代の全期間にまたがっており、多くは東日本で集中的に発見されています。
そのほとんの手形・足形が幼児や子供のものであることから、子供の健やかな生長を願うお守りや、魔除け、通過儀礼的な意味で作られたのではないかと考えられています。
この土版のように、貫通させた小孔があるものも多く、紐を通して吊り下げたものとみられます。

下段; 安芸(あき)遺跡は縄文時代後期(約3500年前)の遺物が主体となった遺跡といわれます。
この遺跡からは、土器、土製品、石器、石製品、漆器、木製品、建築材など約12万点が出土しています。
低湿地であることから、沢山の木製品が長く水中に残されており、このように木製品が多量に出土していることは、縄文人が石器を利用して、木材の伐採や加工をしていたことが分かります。
また、スタンプ状土製品やオロシガネ状土製品、オロシガネ状石皿なども出土しており、四脚付石皿では丁寧に脚が作り出されており、日常的な器ではなく儀礼との関連が強い道具と推測されています。

昨年の見学では、とても細長い独特の形態で朱色で描かれた文様が散りばめられている、沢町遺跡出土の徳利形土器(縄文時代晩期)のような珍しい資料に初めて接し、感激しましたが。
今回は展示室にある分だけでも、余市の町から出土した<町内には60以上の遺跡が確認されている>一見同じように見えても各々微妙に異なる、考古遺物の多様さに目を見張り感心されっぱなしでした。
先の恵庭市郷土資料館で観た考古資料もそうでしたが、北海道だけでも、地域や時代によって様々な土器のスタイルがあるのを識り、残された遺物の断片から全体像を考察する考古の世界では、多くのキーワードを含み、そこから様々な視点での考察眼が養われていくようで、美学的な実物鑑賞とはまた一風異なる世界が広がっていき、その点が大変面白く感じました。
現代人の知り得ない縄文人の世界観、はなんと魅力に満ちているのでしょう、空想癖のボルテージが高まる一時となりました。




このようなローカルな博物館もお勧めです!! !(^^)!  




  
  1. 2017/07/11(火) 13:46:37|
  2. 雑 閑
  3. | コメント:0
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