うちのガラクタ

古びたモノが好きです。日常の捕って付けたようなモノ・コトの紹介です。

327 ネパールの紙 その2




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 ● 仕上げた紙は町場へと運ばれていく。

<9> 仕事をおえて;
紙漉職人たちは紙漉場の持主に雇われていて、一家族で一日約五十ルピーの賃労働である。
紙漉きのできる間自分の村から谷に働きにきているのである。
彼らの主食はディロ(麦・ひえ・とうもろこしの粉を練ったもの)とツァンバ(同、こがし)が多くじゃがいももよく食べる。
野菜や牛製品は乏しい。
仕事をおえていろりの火をかこみくみかわす酒が彼らの一番のたのしみである。
発酵したひえに湯を注ぎしみだした酒を竹の管で飲むトンバは山の暮らしにふさわしい。

<10> 雇主;
タクトール谷の紙漉場はシェルパ族のタクドルジェの所有である。
シェルパ族はチベット文化の影きょうを強く受け、濃厚と牧畜、登山案内などを生業とする。
温厚で信心深い人たちである。
ソロクンブはシェルパ族の生活圏で谷や山の斜面に村が点在している。
なかでもタクトール村とヌンブール谷の合流点にあるジュンベシ村は美しく、佛教寺院や学問寺が数多くあり、シェルパ族の文化の中心地としてしたわれている。
タクトール谷の紙はこれらの寺で経典作成に使われている。

<11> 紙の運搬;
現地で消費されるぶんを除き、紙はカトマンズの紙商人に売り渡される。
カトマンズまでの紙を運ぶのはクーリーと呼ばれる強力たちである。
クーリーたちは数十キログラムの紙を背に、車の使える街道の村まで、三千六百米のラムジュラ峠を筆頭に、二千五百米以上の峠を二つも三つも越え、五日、六日とかけて運んでいかねばならない。

<12> 紙の販売とその用途;
カトマンズには紙の問屋と小売店がある。
問屋は仕入れた紙を倉庫にたくわえ、印刷所や本屋、文房具屋、土産物製造者など大口の消費者に売りさばく。
小売店では一般の小口消費者に、一枚、二枚と紙を売る。
紙の専門店もあれば雑貨屋に紙をおいていたりする。


紙漉き終了の場面では、祝杯の場に、ツァンバ(麦こがし)、ディロ(蕎麦がきの類)、トンバ(どぶろく)など、山のひとたちの懐かしい食べものが登場。
トンバは、木桶の容器(写真)に発酵した穀粒を入れ、湯を継ぎ足して飲むお酒。
細竹のストロー(先に細いスリットがはいっていて穀粒が入るのを塞ぐ)を差してちゅうちゅう飲む。
ストローで飲むということもあってか、酒というよりは、まるでホット・カルピスを飲んでいるような感じで酸味がある。
アルコール度数は低いながら、いい気になって、時間をかけて何杯も繰り返し飲んでいくと、かなり酔ってしまう。
シッキムやカリンポンでは、寒空の下暖を求め、気付くと昼間からちびちびと酒房に通うはめに。
ネパール焼酎のロキシーは、いまでは日本のお店でもあたりまえに飲めるけれど。
この季節、ネパールのローカルメイドの地酒、チャン(どぶろく)、モヒ(乳精酒)、そしてトンバなど、寒さにこらえるような感じで、だらだらと土地の肴とで飲んでみたい気分となります。


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 ● 紙の製品。

紙の代表的な用途は長い歴史を持つ経典の製作用としてであろう。
ネパール佛教、ヒンドウ教経典は手漉紙を数枚貼り合せ、ハルタールという黄色の顔料で地塗りをした上に手がきされる。
チベット佛教では木版刷経典が多く、貼り合わせ紙に摺刷される。
経のほかに護符も木版で摺られる。
マニと呼ばれ経筒におさめたり、魔除け病虫害除けの護符として門口や家内に貼られたりする。(附録一、二)
佛具としては貼り合せ紙に彩画した五佛冠などがある。(図二)
子どもたちには手がきの凧や紙に香辛料をしみこませたアミロといわれる駄菓子がある。(図三、図六)
せんだんのおがくずを紙に巻きこんだ線香もある。(図一)
紙と灰を一緒によくもめば燧石で火をきるときによいほくちとなる。(図四)



火燠しの火口、線香、アミロなど、使用後はその姿を消してしまうようなはかない紙製品を、あえて選択して載せている、伊藤さんの視点が秀逸です。
写真中; 貼り合わせ紙で作られた、手書き写経。 シッキムにて収集。
写真下; 紙を撚ってつくられた線香。<(図一)と同じもの。左の線香にはティカ(色粉)が同梱されている。> カトマンドゥにて収集。


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 ● 附録など。

借金や土地取引の証文もこの紙にかかれることが多い。
また昨今は手漉紙に印刷されたカレンダーや便箋、宗教図像が土産物として多量につくられ観光客の人気を得ている。
木版捺染の盛んなネパールでは手漉紙にも捺染して壁紙や装飾用として使っている。(附録四、五、六)
また色紙としても使われ、香辛料の店先には図のように薬草や染料が紙に包まれ吊されなかなかおもむきがある。
もちろん品物も手漉紙に包んでくれる。
このように包紙に手漉紙を使うことは日本では考えられないことであるが他の紙をすべてインドから輸入しているネパールでは機械漉より手漉紙の方が安いのである。
標準サイズ五十糎×七十糎で一枚二十五パイサ(約五円)から七十五パイサ(約十五円)ぐらいが千九百八十年における小売値である。
ちなみにコメは一キロ約五ルピー(百円)である。

<13> 紙の産地;
紙漉場の分布図は聞きがきにより主たる産地をあげたもので、このほかにも点々と小規模の紙漉場がヒマラヤ山麓の二千個目地帯には存在している。
ネパール以外の東ヒマラヤ、ブータンやシッキムでも紙漉が盛んにおこなわれている。
ネパールではバグルン地方が規模も大きく、良質のものを漉くので定評がある。
ここで良質といわれるものは白さ、打解のよさ、厚み、塵のないことで、薬品や機械を使ったものも、高く評価されている。
ソロクンブの紙はめだたないが自然な美しさがそこなわれない、素朴な愛すべき紙である。


巻末にはネパール紙を使った附録がついています。
経文が書かれた護符(右上は「オーム・マニ・ペメ・フーン」の文字が繰り返し書かれた、マニ車に納める経文)、観世音菩薩符、足形や魚が描かれた捺染紙 、バラビシェ地方とバグルン地方の手漉紙のサンプルの8葉です。
左下;ネパールの紙漉き場地図。
右下;店の軒先には、紙に包まれた商材が吊げられている。


後記;
私がこの本をつくるためにソロクンブに入ったのは五月のはじめ、低地のしゃくなげは盛りをすぎ、三千米をこす高地で花ざかりであった。
ロカタの花の季節は一ケ月まえにおわっていたが高地には咲き残っているのではないかと、いちるの希みを持ってこの地にきた。
紙漉場のニマ青年がロカタを伐りに行くのに従っていき、ひょっとして咲き残っていないかと探しまわったが花はなく、もう青い実ばかりであった。
仕事の合間に、彼に乞うて描いてもらったのが挿図のロカタの花である。
彼はロカタの花を太陽のようだといった。
まさに彼の頭の中にくれないに輝いているのであろう。
ヒマラヤ杉の林が雲を生んでいる。
雲が斜面をはいのぼっていく。
私はその峰々のはるか北方、紙の生まれ故郷、古代中国に想いをはせる。
いつの時代、どのような人々に教えつがれ、引きつがれ紙漉きの技術がこの地に伝えられたのであろうか。
中国から位ベットを経由してであろうか。
あるいは四川、雲南からヒマラヤ沿いに西へ伝わってきたのであろうか。
私はまた同じ手漉紙の文化を持つ日本のことを想う。
磨きにみがき抜かれた日本の手漉紙の技術と、簡潔な素朴なネパールの手法を比べてみる。
人は常にないものねだりだろうか。
私には簡素なタクール谷の紙漉が好ましい。
この紙には谷川の水の清らかさ、やまの樹々の持つ精気が薪火のぬくもりがこめられている。
この本の作成は取材から彫版、摺刷まですべてソロクンブでなされました。
彫版をアンギャルブ・シェルパ、タプケラマ・シェルパ、ガワンゴンボ、ガワンタシ親子。
摺刷をガワンジンバ・シェルパ、本文用紙をビルシン一家が漉いてくれ、取材はラクパー一家のお世話になった。
滞在中はアンパサンとアンヤンジが一切面倒を見てくれた。
今これらの人々とうるわしいタクトールとヌンブール谷の自然の恵みに深く感謝しつつこの後記をおわります。
           千九百八十年五月末日 作者記


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 ● 捺染紙

ネパールで求めた、版木で押した捺染紙(ブロックプリント)の数々。
草花、太陽、法具、仏眼、シバの鉾、幾何学文などを、赤と黒を相互に編した素朴な連続模様。

これと同じようなプリントの赤黒の印捺布が、カトマンドゥ市内のパシュパティナート近辺で売られているのを目にしました。
これらの布は、綿を入れて布団側としたり。女性用の伝統的な上着(ペチコート)や赤子の産着にされていました。

このような赤と黒の幾何連続学模様は、どこかネパールらしく感じられるデザインで。
同じように、織り布のパターンにも盛んに用いられています。
男性の被るトピー(帽子)や、女性の上着に縫いつけてある銭入れ(タイリー)などにも、よく見かけるものです。


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 ● 伝統模様をつかった版画。

ネパールの伝統的な模様を、版木に緻密に彫り上げた美しい年賀状は、以前、三州足助屋敷を訪ねたときお会いした、中村さんの作品です。
話しをしてみると、中村さんも、伊藤さんの旅仲間と知り、その偶然性に驚かされました。
中村さんは、ネパールで師に就いて、伝統的な木版画の技術を取得。
一年の生活費である現金の一切を、紅葉の季節の足助屋敷での労働で稼ぎ。
あとは徳島の山奥で自給自足の生活に暮れているという、奇特な御人。

牡丹鍋をつつきながら、「蝙蝠傘の骨を加工して彫刻刀を自製するなど」中村さんから伺った版画の技術やネパールでのはなし。
囲炉裏で燃えさかる薪をながめながら、「自分では、木を一本燃やすのにも、小枝に換えたり燠にしたりと調整して、こんなに贅沢な燃やしかたはできないな」と中村さんの口からふと漏れた言葉が、とても印象的でした。

上の世代である、伊藤さんや中村さんたちの生き方は、自然体で淑々としながらも、どこか浮世離れの感が強いものの、芯が一切ぶれず気合いが入っている。
情報環境は現代の生活を固持つつ、スタイルとして自然性を取り込んだ、「ロハス」とか「エコロジー」とかの流行とは、まるで対極にある生き方です。
物質や情報過多の現代において、本当に必要なものは何なのかを取捨して、その分を心得ています。
自分には、当然真似できないながらも、そんな生き方にとても魅力を感じさせられます。


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 ●  ネパールの紙

カトマンドゥの紙問屋で、まちのドカン(雑貨屋)でと、折にふれ求めたネパール紙の数々。
高級なものから粗雑なものまで、品質もまちまちです。
漉き水に混じった小さな塵や、輝く雲母片。
火干し乾燥の際、火の粉がつくった小さな焼けこげ。
そこには、手漉紙が生みだす、土地の小さな履歴が、同時に漉き込まれています。

そんな紙の履歴を極端に加工するには、やはり畏れ多く、うちでは専ら襖紙にしたり、調度に貼ったりとして楽しんでいます。

一時期は紙貼りごっこが、すっかりエスカレートしていき、冷蔵庫などの家電にまでも。
そして購入したばかりのエアコンの室内機に貼った時点で 、「まるでラーメン屋のエアコンのように小汚い」と友達に言われ 、心外だったこともありました。

白モノ家電が流行っていた時代、その眩しさと質感は、うちの薄暗い部屋にあってはどうも浮いてしまい、それを阻止すべく起こした小さな抵抗の、紙貼りごっこ。

そんな紙貼り熱も自然と冷めてしまい、さすがに長らく息を潜めておりましたが。
「開けゴマ!!」
このたび押入の天袋より、ミカン箱いっぱいに詰められている、ネパール紙や、タイやビルマの手漉紙が出現しました。

「さて、どうしたものか!?」



ネパール紙の行く末が、最後には、とって貼った、おとぼけブログとなってしまい、大変失礼しました・・・・・・。 (*^_^*) 



  1. 2017/02/18(土) 13:16:39|
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326 ネパールの紙 その1





ネパールの紙に初めて触れたのはいつだろう。
学生時代、千石にあった「紙舗直」の展示即売会だったはず。
DMの写真には、確かネパールのタマン族の女性の姿が写っていたと思う。
もっとも当時は、ネパールはヒマラヤにある一国、といった知識しか持ち合わせていなかったけど。
手にとったネパールの手漉紙は、これまで目にしたことのない風情があり、和紙などにくらべ余りに質朴で、そんな点にとてもこころ惹かれたものです。

「紙舗直」の店主は、和紙などの手漉紙や、西欧のコットンペーパー(デンマークやイタリアのもの)を含め、およそ素材として流通する紙を、店主自らの独創的な視点でもって新たな紙の世界を模索し紹介してました。
作品の素材としての紙というよりは、紙そのものが作品になっており、紙の可能性を探る面で非常に刺激されたものです。
「紙舗直」では、ドイツ人画家 ホルスト・ヤンセンとの和紙を用いたコラボレート作品展も頻繁に催されており。
ヤンセンが作品に使った和紙を集め、販売セットにしたシリーズ ”PAPER HOLST 21 ”なんかも、自分としてはかなり高価だったけど、無理して購入したりしました。
ネパールの紙は1枚300円だったか。
数枚購入してみたけれど、結局もったいなくて一向に使えず、紙としての風合いを愉しむに始終しました。

王子には、王子製紙がもつ「紙の博物館」 (当時の古い時代の建物)があるのを知り、観にいくと。
これまで見たことがない製紙法でつくられたパピルス紙(当時は珍しかった)があったり、展示されていたススメバチの巣も紙のカテゴリーとして含めるなど。
紙としての概念、その幅の広さに驚かされたものです。
 * 現在は飛鳥山に立派な博物館建っており観ることができます。

しなやかで上品な和紙、美しい包装紙、緩衝材や詰め物として用いられる雑紙、塵紙、反古紙、馬糞紙・・・・・・・・・・。
ぱりっと仕上げられた高級なものから、よれてへたった場末のものまで、紙がみせる様々な表情が好きです。
自分の場合、作品の素材としての紙というよりは、どうやら紙そのものが好きなようで。
旅をするようになってからは、自分へのささやかな贈り物として、塩・茶・紙の三品を土産としていた時期もありました。

まずは近場の埼玉県小川町の細川紙、白石紙、越前和紙の工房や作業場などを見学しました。
アジアの旅では、素焼のやきもの作りなどとともに、紙があれば折に触れ目を向けるようにしました。
タイ北部(チェーンライやチェンマイ郊外)のサー・ペーパー(カジノキ科?)の紙漉き作業。
ミャンマーの竹紙(馬糞紙風のざら紙を鎚で叩き、ワックスペーパーのように紙面をピカピカに加工して、金箔のあかし紙に使用)の叩製工程。
インドネシアのスマトラ沖に浮かぶニアス島では、樹皮布作りに出会いました。
ちょうど砧打ちの作業で、樹の靭皮繊維を叩解して平たく加工しており。
漉紙ではないながらも、それも或る意味、紙作りに関連したながれを汲んでいるように感じたものです。

すっかり長い前おきとなってしまいましたが、今回はネパールの手漉紙です。




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 ● 『ロカタの花咲く ネパールヒマラヤの手漉紙紹介』  伊藤 昭 著  千手千眼工房 1982年

ネーパールの紙漉を取材した伊藤さんによる、手作りの木版画本。
本書の紙には、すべてネパール紙が使われています。
うちにあるのは、日本語版第3刷(1992年) 92/108。

伊藤さんとは数度お会いしただけですが、作務衣姿で猿橋の山の奥から木製の背負子に荷を負って、スーパーカブで東京まで出てくる姿は、あまりに独特でどこか仙人めいていて印象的でした。
表具の仕事もされていた伊藤さんの『千手千眼工房』の名前は千手観音からのもの。
名古屋のお寺の住職を中心に、伊藤さんの旅仲間は、それぞれの念持仏にあやかり銘々をされていたようで。
山梨のときにはよく行っていたカレー屋の、「こんな田んぼばかりの山のなかに店があるのだろうかと」という場所にあったヒマラヤンカリーの『ぼんてんや』というお店もそのひとつ。
こちらの店名は梵天(ブラフマー)で、セルフビルドの店内は調度も素敵で、独創的でボリュームたっぷりの仁香さんが作るカレーのファンでした。
本書の冊数の108という母数も仏教にちなんだ数ですね。

本書は、ネパール紙に刷られた木版画の風合いを味わいながら、実際に頁をめくるのが一番ですが。
折角ですから図版をまとめ、紙漉きの工程ごとに全文をそのまま掲載(今回次回と2回に分けて)することにしましょう。
文章にみる行間から、伊藤さんの温かな視線が見受けられ、味わい深いことと思います。



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 ● 材料の調達と調整。


<1> 紙漉場へ;
霧の中にしゃくなげの林は延々と続き、今を盛りと咲き乱れる花のトンネルの中を、夢見心地でのぼっていった。
しゃくなげの林を抜けると峨々たる岩場に出た。
そこが海抜三千六百米、めざすソロクンブ地方の玄関口、ラムジュラ峠であった。
眼下にはしゃくなげの林ごしに緑うるわしい谷が横たわっていた。
紙漉場のあるタワトール谷である。
私は逗留するジュンベシ村めざして、ふたたびしゃくなげの花のトンネルの中へ突入していった。

<2> ロカタの花咲く;
厳しいヒマラヤの冬が去り、雪どけ水に一段と高くなった渓音がヒマラヤおろしにとって変わると真先に咲きはじめるのがロカタの花である。
ロカタの花がほころびはじめると二組の紙漉職人の家族がタクトールの谷に姿を現わす。
一組はラクパと息子のニマ、姪のダーナマイ、息子のカージー。
共にタマン族の人たちである。
紙漉場は竹の網代と割板掛けの二つの小屋からなり、紙漉きと乾燥する小屋と、打解、煮沸、それから職人たちの寝起きに使われる小屋にわけられる。
仕事は冬の休業中に荒れた紙漉場の手入れからはじまる。
網代を新しく編んで小屋の修理、紙漉き池の清掃をする。
筧かけかえられると清冽な水が紙漉場におどりこんでくる。
若い男たちはさっそくロカタの伐採に山に入り、父親たちは乾燥に使う薪の伐りだし女たちは紙漉用具の手入れにとりかかる。

<3> ロカタの伐採;
紙の原料であるロカタはヒマラヤ山麓の海抜二千から三千米に分布するじんちょうげ科のかん木で、タクトール谷ではしゃくなげ、あせび、ヒマラヤ杉の原生林に混じって生えている。
伐採に適するのは樹齢十年ぐらい、直径七~八糎、高さ二米前後のものである。
紙漉場付近の密林には、いたるところにロカタが自生している。
伐採は伐るとゆうより折り倒すといったほうが正確である。
まず下枝をククリ(刀)ではらい、根元から三十糎ほどのところから幹を折る。
次ぎに折れ株に足をかけて、裂けた皮を根本へへぎ下げひきちぎる。
こうすれば根元の皮が無駄なく採れるからである。
根元の皮は特に肉厚で、七~八糎、巾は十糎近くある。
へし折ったロカタは小枝と梢をはらい幹だけにまとめておく。
二十本ほどまとまれば皮をはぎとる。
皮は非常にはぎやすく、樹液はタケニグサに似た強い臭気を発する。
皮が非常に肉厚なので皮ととった後の白木はみちがえるほど細く見える。
この細い白木を見ると、ロカタが多量のせんいを有しており、紙の原料に適していることがしみじみ納得できる。
はぎとったロカタの皮は黒皮を内側にして二つ折りにしてまとめられる。
白木はそこいらに散らかしたまま束ねたロカタを肩に伐採人は小屋に引きあげる。

<4> 黒皮とりと谷ざらし;
黒皮とりは夜の仕事である。
食べものの煮たきロカタの煮沸に使ういろりの火でひとしきり夜なべをする。
黒皮をとり覗いたロカタの皮は2日ほど天日に干す。
乾いたロカタは天井に保存されたり次の工程にまわされる。
ロカタは煮沸するまえに、谷水に一晩つけておく。
水を充分に含んだロカタを岩に打ちつけ塵を除き、煮沸の効果をあげるためククリで細裂きする。




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 ● 材料の叩解と漉き工程


<5> 煮沸と打解;
煮沸に使う灰汁(アク)とり作業は竹かご(ドコ)とくり抜丸太の槽(ドゥント)を使ってなされ、乾燥炉の灰をかきとってドコに入れ上から水を注ぎ、したたりおちる灰汁をドゥントに貯める。
いろりには半切りのドラム缶がかけられ、細裂きされたロカタと灰汁がいれられる。
煮立ってくれば大きな木のヘラでかきまぜる。
打解は平らな石板と木槌を使う。
煮沸のいろり火を背にうけてロカタを打ちつづけるのは根気のいる仕事である。

<6> 紙漉き;
打解のおわったロカタは丸太をくり抜いた桶(ドウン)に移されフィルケという道具で水を加えよく攪拌した後、小さな水槽に移される。
この工程で、日本ではネリ(のり)を加えるがネパールでは使わない。
紙漉きは丸太と割板製のたたみ一畳ほどの池でおこなう。
谷水は筧で導かれ、丸太に刻まれた落口から流れ出ていく。
紙漉きの方法は”溜漉き”である。
まず金網に張った漉き舟(ターガ)と池に浮かべ手杓でロカタを舟にすくい入れる。
分量は紙の厚さによって異なるがダーナマイは手杓に二杯すくい入れる。
これでやや厚手の紙が漉ける。
舟にすくい入れたロカタを小さなフィルケで均等にひろがるようにかきまぜる。
塵やほぐれていないロカタは手でつまみだす。
次ぎに舟を両手で持ち上げむらのでないように水を切る。
水はせんいの少ないところから流れ出ようとするので薄いところへロカタが集まり自然に厚みが均一化されようとする。
それでも習熟しないとむらなく漉くことはむずかしい。
漉きあがった舟は左手にたてかけられ乾燥にまわされる。



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 ● 『 活きている文化財遺産 デルゲパルカン <チベット大蔵経木版印刷所の歴史と現在> 』  池田巧 / 中西純一 / 山中勝次 著  明石書店  2003年。 より

 * デルゲ (sDe dge <徳挌>)は、中華人民共和国 四川省 甘孜蔵族自治区でチベットのカム地方にある都市の地名。パルカン(parkhang)は印刷所の意味。

こちらはチベット紙の事例。
原料は、ジンチョウゲ科 クサジンチョウゲ属 クサジンチョウゲ。
草の根のいらない部分をそぎ取り、塵を取り除き、1時間煮込み、石臼に入れてどろどろになるまで木槌でたたく。
繊維の分散に、バター茶の攪拌用の木筒を転用しているのも面白い。
水を張った水槽の上で紙の原料をスクリーンに流しこみ、均一になるように上下左右に動かす。
漉いた紙はスクリーンのまま天日干し、日差しに恵まれているので、1日2回は外で紙を干すことができる。


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 ● 『ブータンの花』  中尾佐助・西岡京治共著  朝日新聞社、1984年。「12章ブータンの民族植物」 より

ブータン紙の事例。
ブータンやネパールではミツマタとジンチョウゲから伝統的な紙を作る。
紙の原料となるミツマタは日本のものとそっくりだが、別種とされているガードネリ=ミツマタ(Edgeworthia gardneri)。ジンチョウゲ科ジンチョウゲ属のほうは数種類ある。
写真はジンチョウゲ。
ブータンの紙は以前はチベットに多く輸出され、ラマ僧院で経文を書く紙になっていた。
ブータンにもトロロアオイの野生種はあるが、ヒマラヤの製紙法では、日本の製紙法のようにネリ(紙漉きのさいに、トロロアオイの根から抽出する粘液を粘着材として添加する)は使われない。
紙を漉くのに竹の簀の子を使うものと木綿を使うものがある。
写真では竹の簀子の上に、ヒョウタンの柄杓でほぐした繊維をのせている。
漉いた紙は簀の子のまま立てかけて乾かすか、剥がして土壁などに張付け乾かす。
紙漉きは谷間のきれいな水の流れに小屋掛けしてつくっているところが多い。
写真では風呂敷のように真四角な大型のサイズの紙が漉かれている。


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 ● ドラカ近郊風景。

2度目のネパールの旅のときに、チャリコット近郊にある、タミーの人たちの村で紙漉きをやっていると聞き、行ってみました。
チャリコットの町より、その昔、チベットへの塩街道に面したネワール族の古い集落 ドラカを通り、シェルパ族の尼僧院があるビグを経て、車の通るバラビセの町までの二泊三日のショート・トレックでした。
唐棹でシコクビエの脱穀をおこなっていたのが、タミーが紙漉きをやっているススパの集落です(左下)。


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 ● 「ススパの紙漉き用具」  メモより。

ススパに着き、川辺りに紙漉きの道具らしきものを発見したものも、紙漉きはやっておらず。
残念ながら取り残されている道具を採寸したにとどまりました。
写真も数枚撮ったはずですが、ベタ焼きのみだったのか紙焼きしたものが残っておらず。
漉き枠に張られていたのは防虫ネット<カトマンドゥ市内で使われていた防虫ネットは金網製でした>だったはずですが、その素材のほうはいまとなってはおぼろで覚えておりません。
メモには攪拌筒に使う樹種の名前など書かれていますが、いまこうして新たに見るとどうもデヴァナガリーとアルファベットの記載に齟齬があり(地元で知り合った青年を案内役として雇ったのが間違いだったのか)、記録としての確証性が保てません。
ネパール紙のなかには、ときどきキラキラと輝く砂粒が混じっているのを見かけましたが。
なるほど、この辺りの川砂には雲母が沢山含まれています。
聞き書きによる面とは別に、その場を直接訪ねてその環境のなかから得る情報も幾分あるようです。
一枚の手漉紙のなかには、その場の環境そのものの世界も同時に漉き込まれています。
予めエリア内のトレッキング・パーミットは入手してはいたものの、まるで観光としてのコースではないため、チェックポストも一切無く。
一時とはいえ、民泊したり寺に泊まったりと、特に目玉はないけれど、そんな辺鄙な村歩きが出来て、これはこれでなかなかよい体験でした。

木槌に石、攪拌筒に棒、漉き舟、漉き枠と、おおむね伊藤さんの本に登場する道具と同じです。


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 ● 紙の乾燥と仕上げ。


<8> 乾燥;
乾燥は漉き場の背後に設けられた炉のまわりでおこなう。
炉は吹き通しの小屋の床に間口七十糎、奥行一米五十糎、深さ二十糎ほどの穴を掘り、その上に太い薪をかけ渡したものである。
炉のまわりには細枝の支柱が十本ぐらいたてられ、これに乾燥する漉き舟をたてかける。
池で漉かれた紙は数枚たまれば炉のまわりに移される。
漉き舟は炉のまわりを左まわりに送られていき、一周するころにはあらかた乾きあがる。
乾けば紙は自然に金網からはがれてくる。
乾き上がった紙は舟からはがし、紙かけ場に収納する。
紙かけ場は右図のように紙をさし通す竹やりと木の又に竹を渡しかけたおさえからなっている。
漉きあがった紙の上部をやり先にさし、紙のしわをのばして、おさえの竹ではさんでおく。
あきになった漉き舟は池の右手に集められ漉き作業にまわされる。
作業が無駄なく流れるように工夫されている。
風の強い日は火の粉が飛び乾いた紙にとび火したり、紙がまくれあがったりするので、油断できない。
ネパールでもバラビシェなどでは天日乾燥をしている。
ソロクンブ地方では谷が深く湿潤で乾燥に適する場所もなく、豊かな原生林より伐りだす薪に頼っているのは自然のなりゆきだろうか。
燃えさかる百年、二百年を経た巨木を見ていると資源の将来がおもいやられ、いたたまれない気持ちになる。
漉き上がった紙は不良品を除き、二十舞いずつまとめられ、これを十束まとめ二百枚で一コオリと呼び取引の単位とされる。
一日に漉く紙の枚数も一コオリが標準である。



紙漉きの火力乾燥による多大な木の伐採によって、自然体系の変化を危惧する、伊藤さんの冷静な視点。
漉き紙に混じっていた雲母同様に、虫喰いのような線香で焼いたような小さな焼き焦げは、なるほど、火力乾燥で飛び散った火の粉の悪戯だったのですね。

現地に滞在しながら、子細に綴られた伊藤さんの紙漉きレポート、次回は仕上がった紙を流通させ製品となるまでの経緯の紹介です。


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 ● ビグ・ゴンパにて。

おまけの写真は、紙漉きトレックの旅で宿泊した、尼僧院のビグ・ゴンパ。
ソリザヤノキの豆の実の莢のなかには、紙のように薄い種子がぎっしり詰まっています。
そんな紙のような種を、奉納用の供物の椀に貼り付けて作りものをつくっているところです。
御幣にさがる紙垂のように、紙のようにひらひらと白く輝くものは、カミを寄せあそばす効力があるのでしょうか。
供物の椀に、まるで花が咲いたような華やかさとなりました。



いろいろな紙の世界があり、なんとも面白い!!   (~o~)  



  1. 2017/02/16(木) 20:55:13|
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325 昼飲み






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 ● このブログで使っているのは古いタイプのルミックス。

初めて購入したコンデジと同じ型番のものを、騙し騙し使っている、何代目かのカメラ。
記録メディアのSDカードは、2Gまでしか使えず。
いまどき2GのSDカードは、あまり見かけない。
写真を撮っていたらカードがいっぱいになってしまった。
引き出しを開けてみたら、購入時の付随品として付いていた16MのSDカードを発見。これから飲みに行くんで、急遽代打として装填して、ポケットに詰め込んで出発。(2月11日)
それにしても2000年頃には、わずか16Mの容量のSDカードがあったのだなぁと驚かされる。


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 ● 建国記念日のこの日(2月11日)は初午だったのだなぁ。

お隣の農家に見た、「正一位稲荷大明神」の赤い初午幟。
今年は屋敷神のお稲荷さんの小祠のあった土地を転売したので、主家の庭先に赤い幟が立っていました。
まだまだ、寒さが厳しい季節ながら、どことなく春の気配も少しずつ感じさせられるこの頃です。
ヒカンザクラ? 桜の花の蕾も開きかけていました。


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 ● やきとり「野島」

今回は秋津で待ち合わせ、昼間っからお気軽な二人飲みをすることに。
秋津は、西武池袋線の「秋津」駅とJR武蔵野線の「新秋津」駅を結ぶ乗り換えポイント。
その間わずか300メートルほどに、通勤者を充てこんでか、さまざまな店舗や飲食店、飲み屋などが集まっています。
西武線の「秋津」駅は、駅構内の敷地が、所沢市、東村山市、東久留米市の区分に分かれているという、ちょっと変わった駅。
うちからJRを使う場合武蔵野線の「新小平」はよく使うけど、次の「新秋津」で下車することはほとんどありません。
焼き鳥の「野島」は、前身が肉屋ということもあって、レバ串の肉が異常なボリュームで有名な立ち飲み屋ですが、訪れるのも久しぶりでしょうか。
うなぎの寝床のように細長いカウンターには、3時前の開店と同時に客で塞がりいっぱいとなりますが。
この日は旗日ということもあってか、2時40分に到着したにもかかわらず、カウンター外のバックスペースもすでに満員となっている混みようでした。
ここは、出入り口を一応ビニールで覆っているだけで、ほとんど外同然の寒さなので、内燃機関が暖を求め、否応にも酒が進んでしまいます。
立ち飲み用のテーブルとメニューの短冊があるだけの、非常に殺風景な空間は、背後にある業務用の冷蔵庫から串の出し入れに店員が通う道。
そんな店員(ママ以外の給仕はほとんど外国人)を素早くとらえて、確実に注文するタイミングが要求され、なかなか大変です。
インテリア?は「やきとり」の提灯、埃だらけのテディーちゃん、傾いた時計。
客に媚びる愛想が一切ない点が、実用一点張りの実質本意、逆にどことなく昭和の正しき立ち飲み処といった雰囲気を醸し出します。

店の向かいにあった何とも古びた、安売りの八百屋が無くなり、味気のない店舗に変わっていました。
依然かわらぬたたずまいの「野島」ながら、周囲は時代の波で少しずつ変化している秋津なのだなぁと感じさせられました。


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 ● バックスペースも満員状態の「野島」。

やっと確保した壁際の場所には、ガスメーターが目前に。
煙草の火が引火したならば、真っ先に吹き飛んでしまう一抹の不安をよそに、ガスメーターを睨みながら、飲みのピッチもどんどん進んでいくという正にメーター飲み。
ビールの生で乾杯して、黒ホッピー×2、中身×2、レバー、ネギ間、かしら、つくね、豚軟骨、蕪の千枚漬け・・・・・・。
ビールをホッピーに換えてから、宝焼酎特有の安いアルコールの味にかどわされて、酒も進んでしまうのも、立ち飲みの醍醐味か。
でかすぎる串は、中に火を通すために肉の表面が焦げ気味な仕上がりが残念なところ。
この季節は、焼き上がりの焼き鳥も、この場ではあっという間に冷えてしまい、オーダーと品が届くまでの時間を計りながらの飲食となります。


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 ● 一軒目を出るもまだまだ外は明るい。

冬日は短陽といえども、外がこれでけ明るいと、やはり「もう一軒」という気分になってしまいます。
誘惑の条件を満たす安飲み屋も、そこかしこに溢れている秋津です。


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 ● 二軒目は「モツ煮」に決定。

「秋津」駅改札の真ん前にある立ち飲みが、二軒目に決定。
ここも立ち飲み、カウンターのスペースがただあるだけのウナギの寝床。
空間上、客が互いにすれ違えないため、寝床の中央にも出入り口がある妙なつくりの店内。
モツ煮 350円、大鍋で長時間煮込まれたモツを継ぎ足し継ぎ足しての、お店の目玉商品。
お持ち帰りも可(2食分800円、タッパー持参だと更に100円引き)。
みそ味もほどよく効き、意外にあっさり目でとてもやわらかく煮込まれたモツ。
寒い冬場には、中に入っている熱々の豆腐がなんといっても有り難い!


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 ● 入口付近、着いた席は目前に標語の嵐。

「野島」ではガスメーターとにらめっことなりましたが。
ここでは、有り難い標語に囲まれて、教訓を垂らされるはめになりました。
飲んでいるときぐらいは開放されて、自由気儘に愉しみたいものですが。
活字を目前にすると、標語は読みたくないながらも、つい字面を追ってしまいいけません。「○○○みつお」のへたれた詩とは別の次元での教訓が迎え撃つ、品書きの多さをはるかに凌駕する標語の短冊の山です。

「○身に付いた宝は○○ならない」「○○めいめいの○○」などと、品書きのメニューに半ば隠されており、見えないものを知りたくなる人の理を微妙に突いた、なかなかいやらしい演出です。
有名私立のお受験の坊ちゃんなどには、すぐに答えがピンと来るのでしょうが・・・・・・・、一向に解けません。

「場を得て物は真価を発揮する」
「親の心配が子供を縛る」
「努力のほかに何もない」
「明朗愛和が争いを絶つ」
「心に決めたことは天との約束」
・・・・・・・・・・・・・・

いやはや「間に合ってますヮ」 
有り難いお言葉にまみれ、あやうく窒息しそうになりながら、そんな貴重な教訓を断つべくして、瓶ビールからホッピーの安酒に切り替えるはめに。
なんだか出来の悪い子が立たされているような気分となってしまう、立ち飲みでした(笑)。
アテには、モツ煮、しめ鯖、サバ缶水煮などなど。
久しぶりの缶つまが、なんとも立ち飲み風情で嬉しいです。


コスパは優れていながらも、飲みの雰囲気が七割といったかんじの立ち飲みでした!!  (*^_^*) 



  1. 2017/02/12(日) 14:13:12|
  2. 雑 閑
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324 端冷



本格的な寒さの冬となりました。

「手の温かい人は、こころがキレイ!」
と、そんなに都合良くはならないようで。
こころ濁りつつも、冬場はいつも指先がアイスノンのように冷たくなってしまう。
単なる末端冷え性の自分です。

部屋で使っている古いヴァーラーの、1インチ芯石油ストーヴ(L207)は、なんといってもブルーフレーム特有の青いクラウン(火冠)に情緒があり、こころなごみますが。
こころの潤いとは裏腹に、部屋がちっとも暖かくなってくれません。

気づくと、怠け者の本性が持ち上がり、ストーヴの火を点けることもままならず、早々に蒲団に潜り込みカメ男となっているこの頃です。

齢とともに冬場の蒲団の友には、ナイトキャップが必須となり、さらに度が増して靴下、手袋と、すっかりエスカレートしてしまいました。

寝ながらの読書は、指無し手袋を用いるも、やはりどうしても指先が冷たくなっていく。
そんな折りに試してみたのが、このなんともへんてこなかたちの手袋です。


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 ● ミトンに人差し指が付いた奇形なかたちの手袋。

秋口に、近所のリサイクルショップの古着の山を漁り、底から現れたのがこの手袋。
「あっひゃ~、指が二つも付いている!? なんとも奇形な」
モスグリーンの国防色で、妙に軍用っぽい。
しばらく考えて、 「あっ、そっか、そういうことだったんだなぁ~」とピンとひらめき、100円出して持ち帰ったもの。

* ちなみに写真下は「インドのデリーの服地屋さん」、よく見ると店のお兄ちゃんの手が妙で、数えてみると小指の外側に6本目の指が確認されました。


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 ● 銃用手袋    毛・ナイロン混紡   280×115ミリ。

ひらめき通りというか、やはり銃の引金用に人差し指が付いた ものでした。
そして手袋の中に取説の紙片を発見、しっかりトリガー(引金)の文字も確認できました。
Mサイズながら、微妙なバランスで、サイズ的にはだいたいよいものの、親指から人差し指の付け根までが異常に長く、どうも自分の手にはしっくりきません。
まぁ、引金を引くわけではないから、よしとしておきましょう。

そういえば、以前骨董市の軍物で、旧日本軍の銃用手袋を見たことがありました。
そちらは、この手袋とほぼ同じようなかたちながら、素材はフエルトっぽい厚織の布地だったはず。
これは、いったいどこの国のものなのかなぁ?

蒲団に寝て読書用に試すも、バランス悪く上手く頁をめくれません。
どうやら人差し指部分をカットして使ったほうが、具合がよさそうです。


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 ● 蚊除け手袋?

骨董市でみかけたデッドストックもの。
やはり軍用らしく、店主に訊くと「蚊除け用」とのこと。
掌面に切れ込みがあり、指が出せる仕様です。
蚊除けの手袋といわれても、どこかしっくりこないかんじですが。
どんな状況下で使われたものか知りたいものです。


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 ● ミトン   スペイン製。

こちらは学生のときの旅で求めた、羊皮製の手袋。
内側に羊毛がきて、もこもこのボア状態。
使用中は暖かくとても重宝したけれど、手袋を外したときに嵩張り、いちいち煩わしかったものです。
ミトン形の手袋は、指先が器用に使えないためもあり、装着頻度が頻繁になるのが難点。
手袋を外しても落ちてなくさないように、小さな子供用のミトンには首に掛けるための長紐で繋がれていたものです。


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 ● 手袋といえば、やはりこのパペット・アニメの2作です。

(上); 「チェブラーシカ」で有名なソ連のロマン・カチャーノフ監督の『ミトン』(ヴァレーシカ) 1967年。
女の子の赤いミトンがずるずると解けていき、手袋が待望の愛らし仔犬に変身するというメルヘン作品。
互いのミトンを繋ぐ長紐(掛け紐)が見られますね。

(下); 『手袋の失われた世界』  イジー・バルタ  チェコ  1982年。
擬人化された手袋がオンパレードで活動するショート・ムービー。
様々な映画の場面のパロディー・シーンがみられるユニークな作品。

『手袋の失われた世界』
https://www.youtube.com/watch?v=I60ZhiMSY9Y
https://www.youtube.com/watch?v=SQt0z3vhLmM


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 ● 蒲団の友にかかせないものとなってしまった毛糸の靴下。

段違いにまだらに編まれた毛糸の靴下は、母の手製。(上、左下)
足首のギャザーの部分が、札幌で求めた私販の手編みの靴下(右下)にくらべ幾分短めです。

自分たちの子どもの頃は、まだまだ親による手編みの自製品が当たり前だった時代。
古くなったセーターなどほどき、枷糸(かせいと)をつくり、薬罐の蒸気で熨して、毛糸玉に巻く。
家には既に自動毛糸玉巻き機なるものもあったけれど、母親が毛糸を巻き、子どもはその手伝いとして、両手を開げ枷糸を垣し跪き、すっかり人間枷せ架となっていたものです。
糸をスムーズに送り出すために、要所要所で微妙に手首の角度を変えるのがコツなのですが。
いつだか観た、トルコの農村を舞台とした映画では、そんな姿で親の毛糸玉巻きを手伝う子どもの場面が忠実にみられ妙に懐かしかった覚えがあります。

こうして作られた毛糸玉は、雪に閉ざされた室内で、子ども達の着る小さなセーター、帽子、マフラー、手袋、脚絆、靴下、そして女の子の毛糸のパンツなどに生まれ変わり。

いま思えば手編みの毛糸の衣類は、親が子をおもう愛情に満ち、とても有り難いものだけど。

再製された、いくつもの毛糸玉を使った衣服は、色味もどこかまだら模様<いまではその点が、自製品の持ち味だけど>となり統一がなく、そこが整った既製品にくらべなんとも野暮ったく、子どもこころに貧乏くさく感じさせ嫌なものでした。
戦後のイタリア映画の名作『鉄道員』にも、主人公の少年の姉が、親が編んだ毛糸の靴下を嫌々するシーンがあったけれど、既製品が標準となりそんな感覚を共有するのもすっかり難しい時代になってしまいました。

雪にまみれ野外で遊んでいた子ども時代。
毛糸の衣料は小さな雪玉が、まるで毛玉のようにまとわりつき、さらなる雪を付着させます。
長靴の隙間、足首、手首と極部を凍り付かせ、膚が切れるような鋭利な冷たさとなり。
雪ですっかり内部を凍らせた長靴は脱ぐのも難儀したけれど、そんな寒さを苦ともせず遊びに暮れていた頃がどこか懐かしいです。


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 ● 手工芸品に親しみを覚えさせる毛糸の手袋と靴下。

手袋; 「東京蚤の市」にて、エストニア、フィンランド。
靴下; 国立民族学博物館展示にて、トルコなど。

編み手の内面を描くような、微妙な編み目のバランスが、やはり編み物としての持ち味でしょうか。
みんぱくのトルコの長靴下は、かなりのよれよれ状態、足首にルーズソックスのような襞をよせ、民族服にとても晴えそうです。


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 ● 「うちの手袋」 2種。

最後におまけながら。
すっかり年季が入ってしまった作業用革手と、新入りのトリガーくん。
ミトンを穿いた(はく:「嵌める」の北海道弁)うちの姉。



この季節、爺臭いながら、なんといっても温いが一番じゃのう!   (-_-)  




  1. 2017/02/08(水) 19:20:13|
  2. 雑具
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323 愛の詩節




このところすっかりとマンスリー・ブログと化してしまい、皆様には失礼しております。

今回のお題目、 『カーマスートラ』といえば、その名を一度は耳にしたことがあるかもしれません。
しかしながら、その性の本質と技法を真摯に探求したインドの性典『カーマスートラ』の内容に触れることは、現代の日本人にとってはまるで縁がない世界でしょうか。

自分の場合もさにあらず、そのイメージは、むかしビデオでミーラ・ナイル監督の『 カーマスートラ 愛の教科書 』(1996年)という映画を観た印象だけです。
その仕上がりは、多分に『カーマスートラ』の性典の性戯の美味しいところのみを、ドラマ仕立てに抽出しアレンジした内容に始終しており。
どこかハリウッド的な堪能的な安易な恋愛映画となっており、ちっとも面白くなかった覚えがあります。
『カーマスートラ』といってもねぇ、やはりどうしてもこの映画しか思い浮かばず、イメージがそのときの時点のまま完全に固定化されていていけません。

この度、市の図書館の民俗本コーナーで何気なく手にした『カーマスートラ』本。
”ビジュアル版”と謳っているごとく、開いてみたら奔放な性戯図がいきなり飛び出してきました。
受付で堂々と借りるには、やはりどこか心許なく憚れる恥ずかしい図版の数々。
それでも豊富な図版と文章とのバランスがほど良く、『カーマスートラ』の概要を掴むには実に手っ取り早く手頃な感じがします。
「安易ながらもこれならいけるかも。」
少し迷ったものの、やはり思いきって借りてみることにしました。


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 ● 『 ビジュアル版 カーマスートラの世界 』   ランス・デイン著 山下博司 訳  東洋書林 2009年

「愛は心を魅了するものであり、つねに転変を遂げてやまない。
人の心は、現れたり消えたりを繰り返す感覚、夢想、想像に満ちている。
実際に経験していないことであっても、心の中であれば、誰の干渉もなしに想像を自由に駆けめぐらすことができるのである。
人間は、その度の中で自分の夢や思いを叶えようとする。
愛と情熱は、しばしば心の奥深くに秘められ、表に顕れる瞬間に備えている。
そして、もっとも現世的な行為である男女の抱擁と結合の中で、はじめてその姿を垣間見せるのである。」
                  ・・・・・・・・・・・・・・本書「序」より

愛の箴言集『カーマスートラ』は、感情を歓喜に身を委ねさせてくれる魅惑的な作品で、
グプタ王朝の黄金時代(紀元後4~5世紀)に実在した聖者・ヴァーツヤーヤナが、難解な『カーマ・シャースートラ』文献群の意図するところを汲み、要約し編纂したものです。
『カーマ・シャースートラ』とは、医学、音楽、錬金術、性愛、美術、工芸に関する実用書の補助文献の一部であり、知識と技術の一大宝庫で、タブーのない愛の技法を究める学問の入口とされる。
『カーマスートラ』は、性愛の経験の疎い人々に、それにまつわるあらゆる事柄について指南を与え、「教養のある人々」を中心に受け入れられた。
ヴァーツヤーヤナは、性愛の未知の大海に漕ぎ出し、「性」という神話的で魅惑的な世界へと大きな一歩を踏み出す。
ヴァーツヤーヤナによる性典『カーマスートラ』は、それぞれ サーダーラナム(総説)、サーンプラヨーギカム(性的結合)、カニヤープラユクタカム(処女との交接)、バーリヤディカーリカム(自身の妻)、パーラーダーリカム(人妻との性関係)、ヴァイシカム(売淫)、アウパニシャディカム(奥義 )と題された七篇から成る。

序文を読み進めるも、やはり馴染みのない言葉や表現が多く、自分としてはかなり難解です。
どちらかというとビジュアル思考なもので、口絵を見ながら絵本感覚で読み進めていくことにしました。


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 ●  ビジュアル版 開いてみると。

本書に掲載された図版。
誇大なまでにデフォルメされた日本の浮世絵に見る春画などとは方向性は幾分異なりますが、ある点別な面で活き活きと描かれたインドの性表現。
見開き図版には、男女が睦みあう大胆な交接姿が描かれています。
(ボカシをいれてみたら余計猥雑な感じとなってしまって大失敗。)
裸体の写真や画像が巷には当たり前のように溢れている時代ですが、通いの電車のなかで本書を開くには、やはりどこか憚れる感じが強いです。

「カーマスートラはポルノグラフィではなく、性には本道も邪道もなく完全に自然の営みであり。エロティシズムとは、あらゆる歓喜をあますことなく享受することを意味し、それこそが、ウパニッシャド文献に述べられた究極の目標として『聖なる境地』に至る道である」と、ヴァーツヤーヤナは説いていますが。

彩色鮮やかに緻密な構図で描かれた性戯、このような多彩な表現を一堂に目にすると、実際のヌード写真以上によりリアルで、インド思想に疎い自分としては、きわどすぎる箇所も少なくありません。

本書を手に通いの電車内で小さくなって読むものの 、周囲の眼にはきっと色惚けしたかなりの好き者に写っているはず。
きわどいページが来ると、浅く開き隠すようにしながら読み進めるなど、ちょっとした具合の調整が結構しんどかった車中読書でした。


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 ● ミニアチュールなどにみる豊富な絵画表現。

男女の愛(カーマ)をテーマに描かれた精緻な絵画の数々。
私蔵版として製作されたミニアチュールを、実際に手にとり間近で観てみたい気持ちに誘われます。


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 ● 寺院建築や祭典の山車にみられる塑像類。

器体を飾る装飾として塑られた交接像にも、変わらずデフォルメされたアクロバティックな性戯は見られるものの、絵画にくらべると素材感が強調され現状では色彩に乏しい点もあり、どことなくおもちゃの人形が戯れているようで、滑稽に感じてしまいます。


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 ● 写実・抽象と、多彩な愛の実践表現。

座位の一種で交わる男女像。家具に施された愛の芸術表現。(左上)
カーマ神を祝う春の祭り。貴賤のの別なく夜通し歌や踊りに興じる。羽目を外して性を満喫する場面の細密画。(右上)
タントラ的な性の修行に勤しむ行者。中央の女性は大女神の顕れ。タントリズムは、性を含む深い心理の体系であり、この絵はそれを表現した宗教画。(左下)
女陰を疑えた台座(ヨーニ)から屹立するリンガは、陰陽のパワーの合体の象徴。女たちはリンガに水をかけ、白檀ペーストを塗り、花を捧げる。(右下)

・・・・・・・・・・・・・・と、ここまでが『カーマスートラ』の本書の図版です。
性愛のシンボルというべき、リンガが出てきたところで、ついでながら少しばかり関連写真を探ってみますね。


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 ● 陰陽の合致、宇宙原理を体現させたリンガ。

御神体、石臼の台状のものに円柱が立ったかたちをしたシバの「リンガ」。(左上図、本書図版より)
これはヨーニ(女性器)に勃ったリンガ(男性器)が挿入された状態を、女胎内から覗いた場面を具現化したもの。
ヒンズー教圏では、おなじみの造形です。

初めての旅で訪れたネパールで、有名な聖地とされるパシュパティナート寺院。
ヒンズー教徒オンリーでありながら、内部にいったい何があるのかと院内に密入してみたところ、そこで見たのは、まるでチェスの盤の駒のように、整然と並ぶリンガの数々に群れ、篤く祈祷する信徒達の姿でした。
リンガといえば、後に「このかたち」とお馴染み度がしっかり定着するのですが。
初めて目にしたリンガは、極端に精削され抽象化された形態と、宗教の相違のためもあってか、この造形がカミかと認識する上では随分齟齬があり、かなり戸惑ったものでした。

むかしの写真でリンガを撮ったものを探してみても、意外や、このもっともスタンダードで基本のものが撮られておりません。
この基本形のリンガを、加飾によりさらに発展させたかたちのリンガも、ときに目にします。
そちらは、かたちが変わっているので折に触れ撮っていたようです。
右上;仏塔形のリンガ(ネパール、カトマンドゥ)<基部には釈迦像が鎮座>、
右下;神面付リンガ(ネパール、パノウチ)などがそれにあたります。
同じようなタイプの装飾リンガは、タイヤカンボジアのモン・クメールの遺跡や、ヴェトナムのチャンパの遺跡でも結構見かけたものです。

また篤い祈祷(プジャ)の対象とされ、麗しき布で覆われ供花で飾られて、実体そのものが確認できない状態となっているリンガもあります。
それらは、まるで日本の東北地方にみるオシラサマのように、完全に裂でもって覆い隠されたタイプであったりします。(左下;ネパール、ブタニールカンタ)

カトマンドゥ盆地の古都などでは、辻を歩けばカミに当たるといった具合に、路傍の何気ない石ころまでがカミであったりと。
日本の八百万のカミに匹敵するほどの、知らないところに様々なカミが祀られており、とても興味深く散策したものです。


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 ● 私製版艶本 写真帙。

こちらはネパール、バクタプールのダッタトラヤ寺院(左上)で撮った性戯レリーフ(5葉)を収めた自製の写真帙です。

『秘の美術・ネパール』G.トゥッチ著には、このような性戯画や塑像などが多数紹介されていました。
この寺院も幾度も訪れたとはいえ、これまではまるで気がつかなかった。
注意深く探してみると、寺院の背後の壁面(子どもの目線に合うような低い位置)に性戯レリーフが確認できます。
そんなきわどいレリーフがある寺院では、あたりまえのごとく裸の子ども達が遊んでいて。
寺院の性戯の写真を撮っていたら、「ジキジキ、ジキジキ(交接)」と、子どもたちがすり寄ってきて親切に教えてくれます。
ここの子どもたちにとっては、男女の交接はきっと自然な光景の一部として捉えられているのでしょう。

日本の神社仏閣では、金精神に豊穣を祈願して男性自身であるリアルな陽物を祀ったりと、ときに公の場において、そのような造形物がみられますが。
西欧の人たちにとっては、社会秩序上かなり奇異な感覚にとらわれることと思います。
近代以降に導入された、西欧的な道徳観念でもって、性的なものをどこか後ろめたいものとして隠蔽するのに反し、東洋にあっては、性とは、本来はもっと自由闊達でおおらかなものであったはずです。

ネパールは、世界で随一、ヒンズー教が国教となっている国ですが。
ヒンズー教の宗教観もあってか、ここでも建造物の装飾などに『カーマスートラ』的な性の歓合表現された造形物をよく見かけました。


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 ● ダッタトラヤ寺院にみる性戯レリーフ  ネパール。

写真帙の性戯レリーフは、まるで子どものような五頭身体型の男女が滑稽に交接に励む姿です。

ついでながら、本書に掲載された『カーマスートラ』に典拠を持つオリヤ語の貝葉写本には、64種類の性交の体位を解説したものがみられ。
さすがにインドらしいというか、ヨーガの様々なポーズよろしく、日本の性体位をはるかに凌ぐ交歓で溢れています。
『カーマスートラ』にある、愛と性的享楽の極みを経験するには、身体を美しくし、アーユル・ヴェーダ、鉱物学、気象学、ヨーガについての古典テクストに説かれた様々な技術の実践が求められます。
なんとも一筋縄ではいかない『カーマスートラ』の世界観です。

今回は崇高で完全なる、愛の体系『カーマスートラ』をビジュアル面で軽く流してみてきたわけですが。
艶物ネタに関しては「うちのガラクタ」での物品は、まるで思い浮かばず。
はてどうしたものかと探ってみたら、ややっ、どうにか1点みつけることができました。
なぜこんなものがうちにあるのか、入手のいきさつはまるで不明ですが、折角なので『カーマスートラ』とはまるで関係ありませんが、載せてみますね。


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 ● アイヌの貞操帯 「チャチャンキ」   布製    80×85ミリ。

いかにもアイヌ風の模様が刺繍された、一見ポシェット風で腰紐が付いたとても小さな前垂れ。
栞にある製造元は網走原始工芸研究会。
アイヌ関連の資料は折に触れ博物館などで観てはいますが、これまでこういった貞操帯は一見しておりません。
まったくもって怪しい眉唾ものかもしれませんが、どうやら栞では、戦後引き揚げてきた樺太アイヌのものを考証により造ったとあります。
そしてギリヤークやオロッコ(ウイルタ)の手法の影響もあるとのこと。
ちなみにこの貞操帯は直接局部の防御用というのではなく、まじない的に下腹部に締め他人には決して見せないものという。
性に関するモノは秘めモノが多いので、現存資料がなかなかみられないのも頷けます。
思春期が近づくと母とか祖母がカミに代わって造り締めてくれ、自分で勝手に取り外すことは出来ないことになっている。
製品は化学染料染めの鮮やかな木綿でつくられ、腰紐は安易に寒令紗の晒し紐ですが、箱にあるイラストには縁取りや腰紐部分は撚り紐風ですので、素材的にはハマニンニクやイラクサの繊維などが使われていたのかもしれません。
洋の東西問わず、身体に直に施す入れ墨、装着する装身具には、その起源が魔除け的な意味合いのものが多いですから、結界としての貞操帯には納得できます。


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 ● 貞操帯        明治大学博物館蔵。

貞操帯ついでのおまけとして。
こちらは博物館資料でみた、実用としての貞操帯。
西洋のものでしょうか、これでもかといった感じで、装着後には錠をかけて絶対外れないように仕上げた、剛健な鉄パンツ
良家の妻娘用に、主人が鍵を握り強制的に管理したものではないかとおもわれます。
肌に直に触れるため装着感は快適とは言い難い雰囲気ですが、局所の孔は、三つ葉、ハート、花形と飾り模様になっている点が、せめての御愛嬌といったところでしょうか。
股間やお尻の臀部の形状など、微妙な曲線の形状となっていて、まるで吸い付くようにピッタリ密着する意匠は、どこか現在のボンデージ・ファッションに通じる流れを連想させて、少々エッチです。
奔放なる性の開放も、過ぎれば大きな問題ながら。
足枷、首枷、そしてこのような下枷の背後には、管理する側の強固な意志が見え見えで、人間を所有物としてその自由を拘束し、囚われの奴隷の身に堕しめ、未来を断ち切らせ消沈に至らせるようで、いただけません。
しかしながら、このような拘束具のシャ-プな造形を一方で美しく感じてしまう、もう一人の自分もいるようで。
やばいながらも、性癖とは、個人の内面で各々微妙に異なるものなのかもしれません。



崇高なる愛の性典『カーマスートラ』から大きく逸脱し。しまいには艶物の紹介で終わりとなり失礼しました。 _(_^_)_  




  1. 2017/01/29(日) 09:21:56|
  2. 雑 閑
  3. | コメント:0
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